億計(オケ)と弘計(ヲケ)
- tootake
- 2月28日
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更新日:3月8日
億計(オケ)と弘計(ヲケ) - 謎多き古代の兄弟
皆さん、こんにちは! 「地名から読み解く邪馬台国」へようこそ。
今日は、古代史のロマンを掻き立てる、ある兄弟のお話をご紹介したいと思います。彼らの名は、億計(オケ)と弘計(ヲケ)。仁賢天皇と顕宗天皇として知られるこの二人の皇子の生涯には、権力争い、逃亡、そして隠遁という、まるで物語のようなドラマが隠されているんです。私自身、この二人の足跡を追うたびに、古代の激動に思いを馳せずにはいられません。
権力争いの渦中、二人の皇子
物語は、彼らの父である市辺押磐皇子(いちべのおしいわのみこ)が、権力争いの犠牲となり雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)に命を奪われたことから始まります。まだ幼かった億計(7歳)と弘計(6歳)は、父の側近であった日下部使主(くさかべのむらじおみ)という人物の機転により、間一髪で難を逃れることができたのです。これは、まさに命懸けの脱出行でした。もし彼らが捕まっていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
丹波国での潜伏
父を失った二人の皇子は、安全な場所を求めて丹波国(たんばのくに)の与謝郡(よさのこおり、現在の京都府与謝郡)へと逃れ、そこで身を隠して暮らしました。日本書紀には、舎人(とりい)である日下部使主の機転と、その子である吾田彦(あぢひこ)が二人を守り、丹波国へ移り住んだ様子が記されています。幼い二人の皇子を、どのようにして守り育てたのか、想像すると胸が熱くなります。
播磨国での苦難
しかし、安全な日々は長くは続きませんでした。その後、彼らは播磨国(はりまのくに)へ移り、そこで馬や牛の番をする奴婢(ぬひ)として、身分を隠して生活を送っていたと伝えられています。想像してみてください、皇子としての血筋を持ちながら、奴隷のような生活を送らなければならなかった彼らの心境を。この経験が、後の時代にどのように影響したのでしょうか。
執拗な追跡と歴史の転換点
雄略天皇は、皇子たちが逃げ去ったことを知り、四方に兵を出して執拗に探索させました。安康天皇(あんこうてんのう)が大草香皇子(おおくさかのみこ)の遺児、眉輪王(まきわおう)に暗殺された先例があったため、その報復とも言えるほどの強い意志で、二人の皇子の行方を追っていたのです。都の豪族たちの中にも、彼らを匿う者がいないか、徹底的に調べ上げようとしたようです。この緊迫した状況が、古代の権力闘争の厳しさを物語っていますね。
この二人の皇子が、どのようにしてこの危機を乗り越え、後の天皇として即位するに至ったのか。その波乱万丈の生涯に、あなたもきっと興味を持たれるはずです。
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第972話
第423話:飯豊王女は台与(トヨ)なのか?
では、億計(オケ)と弘計(ヲケ)のことを少しだけ書きました。
オケ(後の仁賢天皇)とヲケ(後の顕宗天皇)の父親(市辺押磐皇子)は権力争いで雄略天皇に殺された為、二人は播磨国に逃げて、馬、牛飼いの奴隷になって身を隠したのです。
さらに詳しく億計(オケ)と弘計(ヲケ)のことを調べてみると二人は播磨国に行く前に、て丹波国与謝郡(京都府与謝郡)に隠れ住んでいたことが分かりました。
日本書紀には、「市辺押磐皇子の二人の皇子、七歳の億計と六歳の弘計は舎人の日下部*連使主*(くさかべのむらじおみ)の機転で危うく難を逃れて館を去り、子息の吾田彦*と共にお守りして丹波国与謝郡*(京都府与謝郡)に隠れ住み、、」とあります。
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大泊瀬皇子(雄略天皇)は二人の皇子が逃げ去った事を聞き四方に兵を出して探させたが見つけ出せなかった。大泊瀬皇子は安康天皇が大草香皇子の遺児、眉輪王に寝首を掻かかれた先例も有り執拗に二人の皇子の探索を命じた。都の内に不満を抱く豪族が匿かくまっていないか隈なく探させ、噂が有ればすぐさま兵を差し向けた。
丹波の豪族から二人の皇子と思しき童と老人*が与謝郡に隠れ住んでいるとの報せが有り、兵を差し向けたが逃走した後であった。この時、二人の皇子に付き従い難を逃れた日下部連使主は遠くに兵の迫る姿を見咎みとがめ二人の皇子を息子の吾田彦に託し急ぎこの地を立ち去れと命じた。
吾田彦は二人の皇子を急がせ山中を抜けて山城の苅羽井(京都府木津川市山城町綺田:かばた)に着き乾飯を食していると顔に入れ墨をした男が現れ食している乾飯を寄こせと言って三人の乾飯を奪った。弘計が「乾飯ほしいいが欲しくばくれてやる。お前はいったい誰だ。」男は「わしは山城の猪甘*(朝廷の豚を飼う部民)だ。」と言い放って立ち去った。
一行は先を急ぎ交野の樟葉は(大阪府枚方市楠葉)で鵜河(淀川)を渡り播磨国明石郡(神戸市西区押部谷町木津に顕宗仁賢神社があります。)に逃れた。二人は名を改め丹波小子(わらわ)と称し吾田彦と共に縮見屯倉首(しじみのみやけおびと:兵庫県三木市志染町)に仕え、牛馬の飼育に携わった。
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*連使主とは首長のことです。丹波の首長といえば、丹波大縣主=丹波道主命です。第330話:投馬国とウツシコオ~丹波(但馬)でも書いたように丹波道主命は、ウツシコオです。
*吾田彦~吾田(アタ)、阿多(アタ)とは、第380話:猿田彦は異国人(あたしくにのひと)で書いたように猿田彦=スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米です。~第596話:彦狭知の物語8~猿田彦
*丹波国与謝郡*(京都府与謝郡)~第358話: 鶴と亀がすーべった:籠神社で書いたように、与謝郡は、ウツシコオと台与の拠点地でした。
*童と老人~童は13歳で邪馬台国の大王に即位した台与のことです。老人はウツシコオです。老人(翁)は、白髪です。白髪=猿田彦=ウツシコオであることは、第845話:hidemaru3375.com/post/新羅は白髭-猿田彦で書きました。
*猪甘~第626話:大阪と邪馬台国:猪飼野 で書いたように、猪を飼うのは労働者の体力を維持するためです。猪甘(猪飼)は台与(秦氏)の指導により働く労働者=土蜘蛛のためです。~第800話:大八島国と土蜘蛛
これらのことにより、億計(オケ)と弘計(ヲケ)は台与のことだと思われます。
次回に続く→オケとヲケ(2):水主神社
これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
仁賢天皇 埴生坂本陵(大阪府藤井寺市)




<台与シリーズ>
hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)
https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)
https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与
https://www.hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇
https://www.hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??
https://www.hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山
hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 敏達天皇は台与(豊)
衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊) 雄略天皇は台与(豊)!
孝昭天皇は台与:日原は目原 飯豊王女は台与(トヨ)なのか?
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(2)大原足尼命はトヨ 大宜都比売(おおげつひめ)は台与
倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ?? 神八耳命は台与(豊)
饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
小楯姫は台与:小楯は枚方 四道将軍:日子坐王は台与!
少彦名大神(スクナヒコ)は台与! 大彦は台与!??
ウマシマジは台与! 阿蘇都媛は台与
沼河比売は小楯姫=台与 タケミカヅチは台与!!
ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社
継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) 英彦山と台与