伊予湯岡碑:聖徳太子の嘘(2)
- tootake
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第906話 #道後温泉 #別府温泉
伊予湯岡碑(伊予道後温湯碑)は、かつて愛媛県松山市の道後温泉に存在したとされる飛鳥時代の碑文です。現在では所在は失われてしまっていますが、碑文は後世の引用史料によって知られており、聖徳太子の実在性を示す文書とされていました。原碑は、天武天皇13年(684年)10月の白鳳地震で埋もれたと推測する説があります。
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。~法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異于寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪灌霄庭意歟。 才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。
松山市のホームページに「伊予湯岡碑」の碑文の部分の現代語訳が「意訳」として載っています。~聖徳太子の来浴 松山市公式ホームページ PCサイト
「思うに、天の日月は平等に光を恵む。神の井(温泉)は誰にでも平等に恩恵を与える。このような自然の摂理と同じように私心なく政を行うならば、これこそ理想の国、まぼろしの寿国のこの世での姿ではないか。人々は温泉に入浴して難病を治している。それは寿国にある霊泉花池で沐浴して、弱い人を仏に化すると同じことではなかろうか。湯の岡に立って伊予の連山を見ていると、このまま山にこもりたい気持ちになってくる。椿の木はおおい重なり、丸い大空のような形をしている。『法華経』にある五百羅漢が、五百の衣傘をさしているように。朝は鳥が戯れ、あちこちで囀(さえず)るそこの鳴き声は、ただただ耳にかしましい。真紅の椿が葉を集めて照り映え、椿の実は花弁を覆って温泉に垂れさがる。その下を通って遊びたい。どうして大河や大空の心を知ることができようか。私の誌才はとぼしくて、魏の曹植(そうしょく)のように、七歩歩く間に詩をつくることができずに恥ずかしい。後々の学識人よ、どうかあざわらわないでほしい」。
西暦596年10月、聖徳太子は、道後に来浴され、明媚な風光と良質つの温泉を推賞され、その感動を文章に表らわし、湯の岡(道後公園あたり)に石碑を建たてたことが、「伊予国風土記逸文」に記述されています。
飛鳥時代の推古天皇4年(596年)に、道後温泉を訪れた聖徳太子(厩戸皇子)らにより建立されたと伝わる碑です。中国の温泉賦や温湯碑に倣い設置されたものとみられています。
伊予温泉(道後温泉)には天皇などの行幸が5回あり、第3回目で聖徳太子が高麗僧の恵慈や葛城臣らとともに訪れた際に、太子は「湯の岡」のほとりに碑を建て、その地は伊社邇波岡(いさにわのおか)と称されるようになったとされています。
この伊予湯岡碑は、聖徳太子の実在性を示す文書とされていましたが、その信憑性については、用語などから疑問視されるようになってきています。
我法王大王与恵慈法師及葛城臣の「法王大王」は聖徳太子のこととすると、このとき23歳ですので、その若さで法王大王と呼ばれるはずがないという研究者もいます。しかし、法王大王=聖徳太子=台与だとすれば、法王大王と呼ばれるのも納得できます。ちなみに葛城臣は(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。第327話:于道朱君の衝撃~新羅
ところで、大国主と少彦名もこの道後温泉にきていたのです。
伊予国風土記逸文には、「伊豫の國の風土記に曰く、湯の郡、大穴持命、見て悔い恥ぢて、宿奈比古那命を活かさましく欲して、大分の早見の湯を、下樋よりす持ち度)し来て、宿奈比古那命(スクナヒコ)を漬し浴ししかば、暫(しまし)が間(ほど)に活起リまして、居然(おだひ)しく詠(ながめごと)して、「眞暫(ましまし)、寝つるかも」と曰(の)りたまひて、践(ふ)み建(たけ)びましし跡處(あとどころ)。今も湯の中の石の上にあり。凡て、湯の貴く奇(くす)しきことは、神世(かみよ)の時のみにはあらず、今の世に病に染(し)める萬生(ひとびと)、病を除(い)やし、身を存(たも)つ要薬(くすり)と為せり。」とあります。
大穴持命(大国主命)であり、宿奈比古那命は少彦名命です。
大国主=少彦名=台与です。~第798話:ヲナンジ・大穴持ち・大国主~桜井市
第463話:少彦名大神(スクナヒコ)は台与!
この二神は神話では一緒に各地を訪ねてその土地の開発をしたとされています。その道中、何かトラブルがあって大国主命が少彦名命を手にかけたようです。我にかえった大国主命は「見て悔いて恥じて」、すなわち気を失って倒れているか、あるいはもしかして死んでいるかもしれない少彦名命を見て、後悔し、恥ずかしくなって、何とかして少彦名命を蘇生させようとします。それで大分の早見の湯、すなわち今の別府温泉の湯を引っ張ってきて、その湯に少彦名命を入れたところ、しばらくすると気がついて、あたりを見回して「ああ、よく寝た」と言って、踊り出しました。
大分の早見の湯とは別府温泉のことで、「下樋を持ち度し来て」とあり、豊予海峡の海底に管を通して引き湯したというのです。この話に似た話として、第817話:泉町(1):垂水神社(吹田市)で書いた「孝徳天皇の御代、祭神である豊城入彦命の子孫である阿利真公(ありまのきみ)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って当地から水を送り、その功績をたたえられ、垂水公(たるみのきみ)の姓を賜り、垂水神社を創始した。」という話があります。
別府温泉から海底トンネルで、道後温泉まで湯を通したというのです。
大国主=少彦名=聖徳太子=台与とすれば、話が通じます。このブログでは、台与(=秦氏)は高度な土木工事の技術者です。~第876話:太田 道灌と三島溝咋耳
伊予国風土記逸文によると、「天皇(すめらみこと)たち、湯に幸行し降り坐ししこと、五度なり」とあります。道後温泉に来たとされる人物は、 大帯日子(おほたらしひこ)と大后(おほきさき)八坂入姫の命、景行天皇と大郎皇后(おおいらつめ)。
帯中日子(たらしなかつひこ)=仲哀天皇・神功皇后で、これらの人物は、すべて台与です。
道後温泉のある愛媛の愛媛(美しい姫)とは、台与のことでしょう。
関連項目:第822話:有馬温泉と台与
これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれている13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
玉の石は、道後温泉本館の北側にあります。
少彦名命の足跡が残っていると言いわれており、ひしゃくでお湯をかけてお祈すると、願が叶うと言いわれています。




磐井は肥の君 橘(中臣)氏を頼り 名を鳥羽宿禰(石井源太夫 乎止與命)と名を変え日田の国造として娘を橘氏と縁組させ新たな倭王(継体)を擁立させた
後温泉の名声が大きく広がったのは、593年に舒明天皇が訪れたことがきっかけです。この訪問は『日本書紀』に記されており、皇族が利用するほどの温泉であったことがわかります。
<台与シリーズ>
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倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ?? 神八耳命は台与(豊)
饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
小楯姫は台与:小楯は枚方 四道将軍:日子坐王は台与!
少彦名大神(スクナヒコ)は台与! 大彦は台与!??
ウマシマジは台与! 阿蘇都媛は台与
沼河比売は小楯姫=台与 タケミカヅチは台与!!
ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
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