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ヤマトタケルの足跡を訪ねて(9)    ~健武山神社

  • tootake
  • 5月31日
  • 読了時間: 6分

更新日:5月31日

第699話 #金山彦尊 #黄金山産金遺跡


健武山神社は、栃木県那須郡那珂川町にあります。大同元年(806)の創建と伝えられています。かつての祭神は素戔嗚命であったようですが、現在は日本武尊と金山彦尊です。

滋賀県大津市にある建部大社は、ヤマトタケルを祀る神社として知られています。このように、「建部」という名称はヤマトタケルの功績や影響を反映したものです。その後、改めて健部と名づけたのは、景行天皇が、「わたしの御子、倭健(ヤマトタケル)の御名を決して忘れまい」とおっしゃって健部をお定めになったとされています。

*景行天皇は台与ですので、この話は、栃木県那須郡那珂川町にヤマトタケル(=台与)が来たことがあることから作られた話だと思います。~第578話:景行天皇(第12代)


下野国(栃木県)で正史に最初に記録されたのが健武山神社で、続日本後紀び「下野國武茂神奉授従五位下 此神坐採沙金之山」とあり砂金が採れることから金山彦命を祀ったとされています。健武山神社の下を武茂川が流れており、武茂川では砂金が採れ、この地方では川の土砂を揺すって砂金を探していたと伝えられています。


天平19年(747年)、奈良で大仏鋳造が始められ、大仏に塗る黄金が不足した。この年に下野国のこの地から砂金が発見され、聖武天皇の朝廷に献上されたといい、これが日本最古の産金ともされています。


黄金山神社の社伝によれば、奈良時代に国家事業としての東大寺毘盧遮那仏(所謂奈良の大仏)建立に際して鍍金に要する金の調達に苦慮していた大和朝廷に、天平21年(749年)2月、陸奥国から日本初となる金が発見され、その産出地が日本初の産金である金華山であるとされていました。しかし、文化10年(1813年)に伊勢国の国学者沖安海(おきやすうみ)が天平産金の故地は宮城県遠田郡涌谷町に鎮座する小金神明社(現涌谷町黄金山神社)が黄金山神社である事を査定して再興した為に、金華山の創祀に関する縁起も再考されました。


ただし、一般的に日本最古の産金、とされるのは、宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社で、この神社の祭神は、金山毘古神、天照皇大神、猿田彦命です。(猿田彦はスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)です。)


1957年(昭和32年)、黄金山神社周辺の発掘調査が行ったところ、社殿とその後ろの玉垣附近からは版築基壇跡と4か所の根石群が現れ、社東脇の斜面からは奈良時代の古瓦や土器が出土し、天平年間の産金を記念して建てられた六角円堂*と思しき仏堂が存在していたことが明確となりました。*六角堂~第519話:六角堂と平安京


第476話:金華山と百済王敬福でも金山毘古神が登場しています。

金華山は、日本で初めて金が採れた場所だそうで、金華山には黄金山神社(こがねやま)があります。神の使いとして鹿が保護されていることから、金山毘古神はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王であるとしました

しかし、その後の検証で、金華山は、金の産出地ではなく、島自体を神霊視する自然崇拝の対象となったことから、平安時代以降に修験者、弘法大師(空海)に結びついた真言系の修験場となります。つまりウツシコオと台与のコンビは金華山には来ていなかったということです。


つまり、健武山神社も金華山も金が採れたというのは、伝承にすぎないのです。

ただし、健武山神社の祭神である素戔嗚命、日本武尊、金山彦尊であることからこの栃木県那須郡那珂川町の地にも、台与とウツシコオのコンビが訪れたと思われます。

素戔嗚命=金山彦尊=ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王で日本武尊(ヤマトタケル)は台与です。

ウツシコオ=金山彦尊であることから、健武山神社では砂金が採れるという伝承ができたのです。おそらくウツシコオと台与のコンビは、那珂川の治水を行っていたのでしょう。


このブログの「ヤマトタケルの足跡を訪ねて」シリーズでは、大きな河川付近にある神社には、日本武尊(ヤマトタケル)の伝説が残っています。


黄金山産金遺跡は、古代日本における金の利用と技術の発展の初期の様相を知る上で非常に重要な史跡です。後の時代、江戸時代に本格的な金山開発が行われた佐渡の金山などと比較すると、記録に残る最初の金採取の場として、古代からの金文化の始まりを示す貴重な資料となっています 。古代に採れた金がその後の貨幣制度や工芸品、文化面にも影響を与えたことは、多くの研究者によって指摘されています。



<ヤマトタケル=台与の足跡をたどるシリーズ>


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>

   



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tootake
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tootake
31 may
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「建部(たけべ)」は、ヤマトタケルに関連する名称ですが、ヤマトタケル自身を指す言葉ではありません。日本書紀によると、ヤマトタケルの死を悼んだ景行天皇*が、その功績を称えて「武部(建部)」という軍事氏族を定めたとされています。この建部氏族は、朝廷直属の軍事集団として機能し、ヤマトタケルの名を受け継ぐ形で存在していました。


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tootake
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