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地名から読み解く邪馬台国


茨城県の邪馬台国(1):薩都神社
第928話 以前、 第48話: 太田市と遺跡 ~呉の勝 という記事を書きました。 太田の地名は、邪馬台国(= ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) =難升米 ・台与)と関係があるはずだと、ずっと思っていました。茨城県にも太田市があります。この付近の神社を調べてみました。 薩都神社(さと神社)は、茨城県常陸 太田市 里野宮町にあります。祭神は、立速日男命*です。立速日男命(たちはやびおのみこと)は、常陸国風土記に登場し、立速男命(たちはやおのみこと)とも、速経和気命(はやふわけのみこと)ともされています。常陸国風土記では、立速男命の祟りに苦しんだ住民たちの要請を受けて、中臣鹿島連の祖・片岡大連(国摩大鹿島命の孫)*が朝廷より派遣されて祭祀させたとあります。 常陸国風土記には薩都神社の項が存在し、延暦7年(788年)松澤の地に社を建てたのを創祀としています。延暦19年(800年)には村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼之峰(かびれ:日立市入四間町)に遷座、更に大同元年(806年
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1月15日読了時間: 4分


髪長姫(3):藤原宮子
第927話 前号: 髪長姫(2):日向の髪長姫 で、日向の髪長姫は台与としました。 日向の髪長姫は、仁徳天皇の后とされています。 そして、 第925話: 髪長姫(1)道成寺 で書いた、道成寺の髪長姫は、 文武天皇の后すなわち、藤原不比等の長女での藤原 宮子です。 道成寺に伝わる伝承によれば藤原宮子は九海士の里(和歌山県御坊市湯川町下富安)で生まれたとされており、道成寺および周辺地域には道成寺開創縁起として宮子姫髪長譚(宮子姫物語、髪長姫伝説)が伝えられ町おこしにも利用されています。 梅原阿猛氏は、 宮子は不比等の養女で、紀州(和歌山県)の海女であったとする説を考証しておられます。~海人と天皇新潮文庫(9503) 「文武天皇が持統太上天皇と共に大宝元年(701)に紀伊国の牟婁の湯に行幸した時、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのです。 が、とても信じられる話では、ありません。これは、俗説です。 藤原宮子(=髪長姫)は、史上初めて生前に正一
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1月14日読了時間: 5分


髪長姫(2):日向の髪長姫
第926話 「諸県君牛諸井日向国に美しい娘がいます。名を髪長媛といい諸県君牛諸井の娘です。国色之秀者(かおすぐれたるひと)です」という者がありました。 日本書紀によると、応神天皇に仕えていた髪長姫の父;牛諸井が年老いて帰国する際に、朝廷の恩を忘れず、代わりに髪長媛を差し出した。とあります。 応神天皇が淡路島に狩りをされたとき、西を望むと数人の鹿皮を着けた手こぎの舟が播磨(はりま)の水門(みなと)に入った。不思議に思って使いの者に調べさせると、それは、本庄から一月の舟旅でやっとたどり着いた牛諸井髪長媛一行であった。天皇は、大変喜び召船(めしふね)に引かせた。 船で着いたところが播磨(兵庫)の鹿子水門(かこのみなと)*で、このことから船人を「かこ」、その出入り口を「港」と言うようになった」とあります。*鹿子水門とは、兵庫県加古川市です。 天皇は、媛を大和に近い桑津邑(くわつむら)*に住まわせたが、皇子の大ささぎ尊(後の仁徳天皇)は、媛の美しさに恋慕され、想い悩まれるようになった。この事を臣下から知らされた天皇は、ある日宮廷に宴席を設けて媛をよび、皇子
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1月13日読了時間: 6分


髪長姫(1)道成寺
第925話 道成寺 (どうじょうじ)は、和歌山県日高郡日高川町鐘巻にあります。安珍清姫で有名です。地名の「鐘巻」清姫が安珍が隠れていた釣鐘を蛇になって巻き込んだことからきているのでしょう。 寺伝によると、道成寺は、大宝元年(701年)に文武天皇の勅願を受け、義淵僧正を開山として紀大臣道成によって建立されたといいます。別の伝承では文武天皇の夫人で聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いによって文武天皇が創建したともいいます。 この伝承では藤原宮子は紀伊国の海女であったとする考証もあります。 道成寺に伝わる伝承によれば藤原宮子は九海士の里(和歌山県御坊市湯川町下富安)で生まれたとされており、道成寺および周辺地域には道成寺開創縁起として宮子姫髪長譚(宮子姫物語、髪長姫伝説)が伝えられ町おこしにも利用されています。 「宮子姫髪長譚」 1.出生地:九海士(くあま)の里~道成寺の寺伝では、藤原宮子は九海士の里(現・御坊市湯川町下富安)に生まれたとされる。 海女の娘として生まれ、髪が生えない子であったという“異常出生譚”が物語の核。 2.黄金仏の出現と髪の成長~
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1月12日読了時間: 4分


秦氏の研究
第924話 秦氏の起源については、近年とくに 文献学・考古学・言語学・地域史研究の複合的アプローチ が進み、従来の「秦始皇帝の末裔説」や「百済王族説」のような単純な系譜神話から大きく離れた、より現実的で多層的な像が浮かび上がっています。検索結果から得られる最新の研究動向を踏まえ、現在もっとも説得力のある学術的整理をまとめます。 近年の研究では、秦氏の活動を示す遺跡・土木技術が注目されています。 ■ 葛野大堰(かどのおおい)と秦氏 東昌夫『秦氏族の研究』(2018)は、秦氏の土木技術を工学的視点から分析し、 葛野大堰の築造に秦氏が深く関与した可能性 を示しています。 このブログでは、秦氏の行った土木工事については、 第412話: ヤマタノオロチは淀川~茨田堤2 第344話: 聖徳太子伝説~堀江と茨田堤 第806話: 五社水路と三島溝咋耳 第807話: 邪馬台国と栗隈大溝(くりくまのおおうなで) などで書いています。 第826話: 保津川と葛野大堰 ■ 九州北部の秦氏 同書では、九州北部にも早期の秦氏集団が存在し、 豊国(豊前)に「秦王国」と呼べる
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1月11日読了時間: 6分


海石榴市・長谷寺・補陀落
第923話 #仏教伝来 日本書紀には、「隋の使者である裴世清が難波津から小墾田宮に入った。その日に飾りつけた馬75匹を派遣して海石榴市の衢で迎えた」とあります。海柘榴市は飛鳥時代も都の外港の機能を果たしていたとみられています。 実は、当時の奈良県には、かなり大きな湖がありました。このことは、 第26話: 奈良に湖 もう一つの古代高速道路か ですでに述べています。 奈良県は、四方を山に囲まれた窪地です。 雨水が溜まりやすく、 河川が放射状に集まり、 大和川が唯一の出口です。 古代の人々はこの奈良盆地湖を水運として利用しました。 海石榴市はまさにその「出口に向かう水系」の結節点に位置します。 海石榴市は初瀬川(大和川上流)に接し、大和と難波を結ぶ水陸交通の要衝でした。 隋使・裴世清の一行は難波から大和川→初瀬川を遡り、海石榴市に至ったと考えらています。海石榴市は水運と陸路(上ツ道・横大路など)の結節点でもありました。 その上流には、初瀬川・寺川・飛鳥川などが集まっています。 古奈良湖の跡地は長く湿地帯で、古代にも洪水が多かったことが記録されていま
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1月10日読了時間: 6分


邪馬台国は河内湖:長柄船瀬
第922話 第909話: 真舌媛:孝霊天皇妃は台与 では、次のように書きました。 中世の味舌庄は、甘舌・真舌とも書かれ、淀川下流の有力な分流の1つである三国川に面し、対岸の地、鯵生(あじふ)野は、住吉大社神代記の「長柄船瀬本紀」にみえる、遣唐使船に荷物が積み込まれたという、長柄船瀬(港津)の地に比定されています。 *味舌姫は、記紀では孝霊天皇の后とされています。 長柄船瀬は、淀川下流域の大規模な古代港湾で、住吉大社神代記では、遣唐使の調物積載地として記述されています。 住吉大社神代記:長柄船瀬本記には、「船瀬泊。欲遣唐貢調使調物積船舫造泊天皇念行時。大神訓賜。我造長柄船瀬進矣。」とあります。天皇が遣唐貢調使の船の泊を造ろうと思った時、(住吉)大神が、長柄に船瀬の泊まりを造って進(奉)じたということです。 荷物は長柄で積み、それから住吉に航行して住吉の神に航海成就を祈願してから遣唐使など人々を乗せて出航したのでしょう。 ここで重要なことは、当時の大阪は、ほとんど河内湖という巨大な湖だったといことです。つまり、難波津、住吉(住之江)とは、河内湖で船で
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1月9日読了時間: 5分


小野妹子 国書紛失事件
第921話 多利思比孤(タリシヒコ)5 日本書紀によれば、小野妹子(隋での名は蘇因高)は、推古天皇15年(607年)に通訳の鞍作福利らと共に大唐(当時の隋)に派遣されます。と呼称された妹子は、推古天皇16年(608年)4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国しますが、隋の皇帝煬帝からの返書を経由地の百済において紛失したと報告します。その罪は流刑に相当するものであったが、推古天皇によって恩赦され罪に問われませんでした。こののち妹子は冠位:大徳にまで昇進しています。この視点は、実は近年の歴史学でも重要な論点になっています。 日本書紀では、小野妹子は隋の返書を持ち帰った。しかし「紛失した」と報告した 理由は書かれていない。返書の内容も残っていない。 つまり、返書の実物は存在しない。にもかかわらず、日本書紀は「返書は確かにあった」と前提して叙述を進めます。 この小野妹子の国書紛失事件は、 隋書では、倭王は多利思比孤(タリシヒコ)となっていますが、日本書紀では、推古天皇(女性)が天皇となっている件と関係があると思われます。 これは、大和王権の外交的威信を高めるた
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1月8日読了時間: 5分
邪馬台国 第881話~第920話
第1話~第40話 第41話~第80話 第81~第120話 第120話~第160話 第160話~第200話 第201話~第280話 第281話~第320話 第321話~ 第360話 第361話~第400話 第401話~第440話 第441話~第480話 第481話~第520話 第521話~第560話 第561話~第600話 第601話~第640話 第641話~第680話 第681話~第720話 第721話~第760話 第761話~第800話 第801話~第840話 https://www.hidemaru3375.com/post/邪馬台国-第841話-第880話 邪馬台国地図別目次 邪馬台国 家系図 古代史 人名辞典 第881話: 欠史八代と磯城県主 第882話: 宰(みこともち)は、ウツシコオ(内色許男命) 第883話: 近つ飛鳥と遠つ飛鳥~同名地名の謎 第884話: 欠史八代:大間宿禰 第885話:
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1月7日読了時間: 3分


秦王国は大阪
第920話 多利思比孤(タリシヒコ)4 隋使いである裴清( 裴世清) の来訪経路は、 「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至 秦王國 」と書かれています。 百濟→竹島→耽羅國→斯麻國(対馬)→大海中→一支國(壱岐)→竹斯國(筑紫:九州)→ 秦王國 筑紫より東で、十餘國を経て海岸に達する国といえば、難波津(住吉)です。 ~ 第918話: 隋使派の嘘(2)裴世清と張政 「至」の最後が秦王国ですので、倭国の大王:アマタリシヒコの居所は秦王国ということになります。つまり隋書のいう秦王国とは、難波(大阪)ということです。 このブログでは、台与とウツシコオの一族は、秦氏でることは、度々書いてきました。 ~ 第459話: hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 そして「秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也」と書いてあります。 秦王国の人は夏)と同じ人で、なぜ、夷洲(異国人)というのか解らないというのです。 中国史書では、辰韓を秦韓とも書きます。隋書の「秦王国」という記述をこれに倣えば秦王国
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1月7日読了時間: 5分


東夷伝と用明天皇
第919話 多利思比孤(タリシヒコ)3 東夷伝 (とういでん)は、中国の史書で、中国の東方に住んでいる諸民族について書かれています。 新唐書』東夷伝(日本伝)が書かれた年代は、北宋の仁宗・嘉祐6年(西暦1060年) です。 新唐書の東夷伝には、次のように書かれています。 其王姓 阿每 氏,自言初主號 天御中主 ,至 彥瀲 ,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次 用明,亦曰目多利思比孤 ,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。 ・ 阿每 は、 倭王:アメノタラシヒコです阿毎・多利思比孤で、阿毎は「天」「大海」つまり ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) 、台与の
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1月6日読了時間: 5分


隋使派の嘘(2)裴世清と張政
第918話 前回: 遣隋使の嘘:アメノタラシヒコ では、 隋書のいう倭王:多利思比孤とは、ウツシコオのこととしました。そして、 隋使の裴世清は、魏志倭人伝をかいたとされる張政です。 この説をもう少し詳しく検証してみます。 隋使の裴世清の日本(倭国)での記録は、日本書紀と隋書にもあり、かなり詳細に記録されてます。隋使派遣の月日を隋書は記していませんが、日本書紀では推古16年(608 年)で4月に筑紫に着いたとあります。隋使は6月15日に難波津に到着し、 倭国側はこれを河口(江口)で飾船30艘の出迎えし隋使のために造営した新館に案内します。 隋使来訪の情報を聞 いた倭王は、これを迎える新館を造り始めさせ、隋使は筑紫着から1ヶ月以上かけて「又東 至秦王國(中略)又經十餘國 達於海岸」と、難波津に着岸し飾り船で出迎えを受け完成した新館に案内され、ここで倭王と対面したとは記述はありません。 実は、隋書は倭国の都の位置を明確に示していません。「海岸に着いて、既に彼の都に至った」あり、道程がここで 終っているためです。隋使(裴世清)が来日した 608...
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1月5日読了時間: 6分


遣隋使の嘘:アメノタラシヒコは、、
第917話 古事記、日本書紀の作者にとって隋書は、危険な文書です。なぜ危険かというと、隋書には記紀に書いてないことが書いてあるからです。 隋書のどの部分が日本書紀にとって“危険”だったのかを、検索結果の学術論文に基づいて整理すると、危険性は「内容そのもの」よりも「その内容が示す政治的意味」にありました。つまり、日本書紀の編纂者が隋書を十分に理解したうえで、意図的に削除・改変した箇所こそ“危険”だった部分です。 隋書では、倭王は多利思比孤(タリシヒコ)となっていますが、日本書紀では、推古天皇(女性)が天皇となっています。 倭王の実名はアメノタラシヒコです阿毎・多利思比孤 姓:阿毎、字:多利思比孤、号:阿輩雞彌(おおきみ=大王) 阿毎は「天」「大海」で、タラシヒコは「足彦」「帯彦」です。 第773話第773話: 阿万(あま)氏と西都原伊古墳群 なお推古天皇はこのブログでは台与(豊)です。 ~ 第587話: 推古天皇(第33代)は台与! 第571話: hidemaru3375.com/post/孝安天皇(第6代) では。足彦(たらし彦)はウツシコオ
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1月4日読了時間: 5分


辰王家(百済)と住吉神・安曇族
第916話 前回: 蘇我氏の真実(4)木羅斤資と昆支王 では、 木満致(木刕満致)が、木羅氏は馬韓系の辰王家門であると書きました。 ~ 木氏(木羅氏)は馬韓の「辰王家門」系とされる(李道学説) 辰王家門は、馬韓南部(栄山江下流域〜全羅道)に勢力基盤を持つとされる一族です。 木羅氏の本拠もこの南部圏に比定されることが多く、この地域は、海上交通(倭・伽耶)に直結する南の玄関口です。 今回問題としたいのは、辰王家門の祭祀(海神・水神)と倭国の海人系氏族(安曇氏・住吉系)との類似です。 辰王家門(馬韓南部の海上勢力)と、倭国の海人系氏族(安曇氏・住吉系)をつなぐ糸は、 「海の祭祀」+「渡海儀礼」+「王権の補佐」という三つの軸で立体的に絡み合っています。 辰王家門は、馬韓南部(栄山江下流〜全羅道)に根を持つ在地勢力で、その祭祀は明確に海・水・巫覡に結びついていたと考えられています。 • 海神・水神への祈祷 • 渡海の安全を祈る儀礼 • 巫女的シャーマンの強い役割 • 海上交通(倭・伽耶)を掌握するネットワーク つまり、辰王家門は、海を渡る王権」を支える儀礼
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1月3日読了時間: 5分


蘇我氏の真実(4)木羅斤資と昆支王
第915話 第913話: 蘇我氏の真実(2):蘇我 満智(そがのまち) では、 木満致=蘇我 満智がウツシコオある事を書きました。木満致(もくまんち)は百済将軍の木羅斤資(もくらこんし)の子とされています。 第758話: 昆支王(こにきし)は、応神天皇(台与) では、 昆支王(こんきおう)は台与としました。 それでは、木羅斤資(もくらこんし)と昆支王(こんきおう)の関係はどうなっているのでしょう。私の推論では、 木満致は、 ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) で、 昆支王は台与です。 結論から言うと、木羅斤資と昆支王に、直接的な血縁関係を示す史料はありません。 しかし、「百済王族とその側近(貴族)という政治的ペアとして行動した可能性」は、近年の研究で強く指摘されています。 1. 史料上の立場 ● 昆支王(扶餘昆支)- 百済・蓋鹵王の子(または弟)- 文周王の弟- 東城王・武寧王の父 - 461年に倭へ渡来(日本書紀) 475年の漢城陥落後、百済王族の中枢人物 - 飛鳥戸氏の祖とされる。 ● 木羅斤資(木羅氏)- 百
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1月2日読了時間: 5分


蘇我氏の真実(3):蘇我氏と秦氏・葛城氏
第914話 今回は、なぜ蘇我氏は“大臣”として台頭する以前から、王権の財政機構を掌握できたのかを考えてみます。 蘇我麻智 は、古語拾遺によれば、雄略天皇代、増大する諸国からの貢物に対応すべく、新たに大蔵が興され、麻智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したといいます。つまり、蘇我氏は、5世紀後半には既に朝廷財政を統括していたと思われます。 当時の蘇我氏が王権のクラや財政と関係していたことは、古事記に見える宗賀之倉王(そがのくらのみこ、日本書紀では倉皇子)の存在からも推察できます。 古語拾遺に見える蘇我麻智の伝承は、蔵関係の伝承を語ることから、6・7世紀における蘇我氏の朝廷のクラ管掌という史実を遡らせ、蘇我氏の中でもクラを管掌した蘇我倉氏や、その末裔である石川氏によって作られた伝承であり、秦氏や蘇我倉山田石川麻呂(蘇我倉氏)の家伝に基づいて造作された可能性も指摘されています。 学界で最も重視されている説としては、渡来系氏族である秦氏・漢氏との強固なネットワークです。 5〜6世紀の財政・工業・土木・外交の実務は、秦氏・漢氏などの渡来系氏族が担っています
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2026年1月1日読了時間: 4分


蘇我氏の真実(2):蘇我 満智(そがのまち)
第913話 前回: 蘇我氏の真実(1) では蘇我氏の具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては、全く文献がありません。と書きました。 しかし、蘇我 満智(そがの まち)がいました。蘇我石川宿禰の子で、武内宿禰の孫にあた。蘇我韓子の父、蘇我稲目の曾祖父です。 蘇我 満智は、 履中天皇→反正天皇→允恭天皇→安康天皇→雄略天皇に仕えたとされています。 履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇が台与であることはすでに書いています。 第583話: 履中天皇(第17代)~大江 第584話: 反正天皇(第18代)は、、、 第585話: 允恭天皇(19代)~清寧天皇(第22代) この図式は、武内宿祢が 景行天皇=成務天皇=仲哀天皇=応神天皇=仁徳天皇に仕えたというのと同じです。景行天皇=成務天皇=仲哀天皇=応神天皇=仁徳天皇は台与です。 第578話: 景行天皇(第12代)と神夏磯姫 第579話: 印南別嬢(いなみのわきいらつめ) 第580話: 仲哀天皇(第14代)とトヨ(豊) *武内宿祢 ~ 第502話:
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2025年12月31日読了時間: 5分


蘇我氏の真実(1)
第912話 蘇我氏は謎の多い一族です。このブログは、邪馬台国を追及するブログです。もう900回を超えましたが、一度も蘇我氏については書いていないのです。なぜかというと蘇我氏に関しては、信頼できる資料がないからです。蘇我氏は、古事記、日本書紀が作り出した架空の氏族ではないのかと思い始めています。 古事記や日本書紀では、蘇我氏は武内宿禰を祖としています。武内宿祢は、このブログで何度も書いているように、 スサノオ(津田の王 ) = ウツシコオ(内色許男命) =難升米 です。~ 第502話: 武内宿禰はウツシコオ(2) 蘇我氏の具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては 、全く文献がありません。大阪府の石川流域、南河内郡河南町一須賀、葛城県(高市郡)、蘇我里(奈良県橿原市曾我町)を本拠としていた土着豪族であったとされています。 蘇我氏は大王家(皇族)との婚姻関係を通じて強大化した氏族とされ、蘇我氏と深く結びついた皇族(古代王族)には、下記のような人たちがいます。 🌸 推古天皇~ 蘇我馬子と協力して政治改革を進めた。~ 第
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2025年12月30日読了時間: 5分


清水寺と坂上田村麻呂
第911話 坂上田村麻呂は台与(2) 清水寺については、 第863話: 清水寺と地主神社 ですでに書いたのですが、前回: 呉服神社と坂上氏・阿智氏 を書いた際に、坂上田村麻呂の坂上氏が有名な神社の創建に関わっていると書きました。今回は、坂上田村麻呂と清水寺の関係を追及してみます。 宝亀11年(780年)に鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心という僧侶に出会います。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのですが、延鎮より殺生の罪を説かれて観音に帰依*し、観音像を祀るために自邸を本堂として寄進し、音羽の滝の清らかさにちなんで清水寺と名付けます。 *殺生の罪を説かれて観音に帰依というのは、 第856話: 行願寺と狩人 で、書いたように、 狩猟者改心のモチーフです。 狩猟者改心のモチーフの文化的意義は、殺生から慈悲への転換は、仏教の教義において、殺生は戒律に反する行為で、狩猟者が改心することで、仏教的価値観への転向が強調されます。とされていますが、 第557話: 御頭祭:鹿と神社...
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2025年12月29日読了時間: 5分


呉服神社と坂上氏・阿智氏
第910話 坂上田村麻呂は台与(1) 呉服神社(くれはじんじゃ)は、大阪府池田市室町にあります。 祭神は 、呉服大明神と仁徳天皇*で、仁徳天皇*の御代に没した呉服の祖神を祀っています。 呉服大明神 の遺体をおなじ池田市にある伊居太神社の梅室に、形見の三面神鏡をこの呉服神社の境内の姫室に納め、神祠を建てて 呉服神社 としたされています。「呉服」という言葉の由来は、この神社にあるとされています。 呉服大神は、日本最初機織裁縫の祖神です。 応神天皇*の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された阿知使主*と都加使主父子が、呉王に乞い連れ帰った呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹のうち、池田の地に迎えられた呉服・穴織姉妹の姉、呉服媛を猪名の港、現在の猪名川に架かる呉服橋と絹延橋の間にある唐船が淵に機殿(はたどの)を建てて迎えたとされています。 * 仁徳天皇は台与です。~ 第582話: 仁徳天皇(第16代) *応神天皇も台与です。~ 第581話: 応神天皇(第15代)は台 与 * 阿知使主~
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2025年12月28日読了時間: 5分
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