関東の邪馬台国2~上殖葉皇子
- tootake
- 8月5日
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更新日:8月5日
第765話 #反正天皇#丹比#多治比
上殖葉皇子(かみうえばのみこ)は古墳時代後期の皇族で、第28代・宣化天皇の皇子とされています。古代氏族・多治比氏(たじひうじ)の祖とされています。
上殖葉皇子は「多治比王」「多治比古王」とも呼ばれ、後裔が「多治比氏」を名乗るようになります。奈良時代には左大臣・多治比嶋をはじめ、遣唐使や大宰帥などを務めた高官を多数輩出しました。その後裔は中世以降、武士団としても展開し、特に武蔵国の「丹党(たんとう)」が有名です。
前回:関東にある邪馬台国(1)~埼玉では、「早稲田大学文学部の教授であった松田壽男氏の「丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀」(早稲田大学出版部)によりますと、埼玉県には、丹生神社が22社もあり、和歌山県に次いで二番目に多い県です。丹生神社の多さは、日本列島のを横断する「秩父帯」が朱(水銀)の採掘地であったことを示唆しています。平安、鎌倉時代になると秩父を中心に「丹党」と称する武士団の活動が記録にみえます。」と書きました。
上殖葉皇子は、 宣化天皇の三世孫とされ、誕生時に「いたどり(虎杖)」の花が産湯に飛来したことから「多治比」と命名されたという伝承があります。しかし、「多治比」は大阪の地名です。虎杖にはタジヒという別名があります。多治比=丹比は反正天皇の宮があったところです。~第618話:大阪と邪馬台国:丹比(たじひ)
そして、反正天皇にも上殖葉皇子と全く同様の伝承が残っています。
新撰姓氏録によれば大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の御世に、淡路宮で瑞歯別尊(反正天皇)が誕生した際に、虎杖の花が湯の中に飛び入ったため、色鳴宿禰*が、淡路瑞井水で瑞歯別尊を濯いでいたところ色鳴宿禰は、瑞歯別尊を多治比瑞歯別命とし、諸国に丹治部を定め、瑞歯別尊の湯沐邑とすることを天神に奏上し、結果色鳴は宰相となり、丹比部を管理したといいます。
つまり、
・上殖葉皇子は、「多治比」と命名された。
・「多治比」は丹比で大阪府の地名です。
・大阪府の丹比は反正天皇の宮のあった所です。
・上殖葉皇子と反正天皇は同じ虎杖(いたどり)に関する誕生時の伝承が残っている。
上記により、上殖葉皇子は反正天皇は同一人物です。反正天皇の幼名は多治比別瑞々王(多治比古王?)です。
*色鳴宿禰(しこめのすくね)は、宿禰(宿祢)ですので、ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。
多治比瑞丘尊(たじひのみずおかのみこと)の名を賜り、各国に丹治部(たじひべ)を置き、皇子の湯殿所を管理する「邑(みこともち)」として邑戸を治めたとされています。
邑(みこともち)は宰(みこともち)で宰相ののことです。ウツシコオ(内色許男命)
=武内宿祢は歴代天皇の宰(みこともち)でした。そして、上殖葉皇子は台与でしょう。
第618話:hidemaru3375.com/post/丹比(たじひ)-大阪府松原市では、「反正天皇もやはり台与(豊)ということになります。」と書きました。
丹党の丹は、水銀のことです。ウツシコオと台与が水銀を求めて日本各地のを回ったことは、何度もこのブログで書いてきました。
~第63話:丹・朱を求めた天皇たち 第616話:鉱物資源と邪馬台国14~弥都波能売神(みずはのめ)
丹比氏の祖は火明命(ホアカリ)です。*火明命(ホアカリ)は台与です。~第420話:hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??
以下はAIにより作成した文書です。私の考えは入っていません。
丹比氏は反正天皇の誕生に際して産湯を献上したり、湯沐邑(ゆのむら)を管理したとされ、皇室との密接な関係を築いていました。
丹比神社では火明命とともに反正天皇(瑞歯別命)を祀っており、神と天皇の両系統を融合させた信仰構造が見られます。
丹比氏の本拠地は河内国丹比郡(現在の大阪府堺市美原区)で、黒姫山古墳などの大型古墳が築かれたことから、有力豪族としての地位がうかがえます。
丹比柴籬宮(松原市)に都を置いた反正天皇との関係も、丹比氏の神別氏族としての象徴性を高めています。
多治比氏と丹比氏は同一の氏族です。古くは「丹比」と書き、のちに「多治比」と表記を改めたものと考えられます。
古代中期以前
「丹比(たんぴ/たじひ)」の字を用い、摂津国丹比郡を本拠とする皇別氏族を指した。
平安時代
866年頃、丹比氏の一部が「多治比(たじひ)」と新たな字をあてる形で表記を正された記録がある。
中世以降
両表記が併用されるが、系譜上・氏族伝承上は同一集団として扱われ続けた。
祖先
宣化天皇の皇子・上殖葉皇子(多治比王)を祖とし、丹比郡(摂津)を領有地としたという伝承を持つ。
系譜・出自伝承ともに両者を区別せず、同一の家系として扱っている。
これらの点から、多治比氏と丹比氏は別個ではなく同一の氏族と結論づけられます。
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<蛇足の追記>
以下は、上殖葉皇子、反正天皇(第18代)のほか、この「誕生時に虎杖(いたどり)の花が産湯に飛来した」という伝承をもつ主要な人物です。
和邇河勝(わにの かわかつ)
古代豪族・和珥氏(わにし)の有力者。
『日本書紀』に、河勝の誕生に際し、産湯の桶に虎杖の一種が飛び込んだという伝承が見える。
後に皇極天皇元年(642)~孝徳天皇2年(653)頃まで活躍したとされる。【※】
藤原鎌足(ふじわらの かまたり)
中臣鎌足とも称され、飛鳥–奈良時代の名宰相。
一説に、鎌足の誕生時にも産湯の桶に薬草(虎杖を指す)の花が飛来し、将来の出世を予告したとの言い伝えがある。
藤原不比等(ふじわらの ふひと)
鎌足の子にして、天武朝以降の中務卿・太政大臣。
不比等にも同様の出生伝承があるとする系図・家伝があり、「虎杖の花」を吉兆とした記述が散見される。
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
イメージ画像:本文とは関係ありません。



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