大阪と邪馬台国~玉造
- tootake
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更新日:3 日前
第700話 #大阪女学院 #玉造稲荷神社
玉造稲荷神社は、大阪市中央区玉造にあります。祭神は、他の稲荷神社と同じで宇迦之御魂大神です。相殿神として、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命(カグツチ)が祀られています。社伝によれば垂仁天皇天皇によって創建され、当時は比売社(ひめがみ)と称していました。蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子*がこの地、玉作岡に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承があります。*聖徳太子は台与です。宇迦之御魂大神、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命も台与です。←詳細は後述予定
現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承があります。玉作部や玉作り遺跡の分布は、各地にあります。たとえば玉作神社・玉祖神社・玉造郷・玉祖郷などを、風土記、延喜式、和名類聚抄などに記載するもののみに限っても、西から東へ、周防・土佐・出雲・河内・近江・駿河・伊豆・下総・陸奥などにおよんでいます。
玉作り遺跡も日本各地にあり、加賀・越前・越中・越後など、北陸地域にも分布します。玉作りの伝統は早くから形づくられ、玉造稲荷神社の玉作り伝承も、難波の玉作部の存在を示していると思われます。
日本書紀の仁賢天皇六年九月の条には、興味深い説話が記述されています。
「難波の玉作部鯽魚女(たまつくりべのふなめ)が韓(から)の白水郎はたけ(あまのはたけ)にとついで哭女(なくめ)を生んだ。その哭女が住道(すみぢ)の山杵(やまき)にとついで飽田女を生んだ。日鷹吉士(ひたかのきし)が高句麗へ派遣された後、飽田女(あきため)は難波の御津(みつ)で「私の母にとってもせ(兄)であり、私にとってもせ(夫)である。やさしいわが夫はああ」と泣き悲しんだといいます。
上記の玉作部鯽魚女、飽田女の逸話は非常に複雑で分かりにくいのですが、登場人物に吉士(きし)氏が出てくることで、台与との関係が見えてきます。
高句麗に派遣されたとする日鷹吉士とは難波吉士とのつながりをもつ紀伊日高(鷹)の吉士であり渡来系の氏族です。
吉師氏は、大阪府吹田市の岸部駅の近くに本拠を持つ豪族です。社伝には、崇神天皇56年、大和瑞籬(大和の布留の社の石上神社・社家物部氏)より奉遷し、「太神宮」として創建されています。岸氏は、安部難波吉師(あべ・なにわ・きし)と呼ばれ、紫金山麓に一大瓦工房を造り、難波宮や平安京の瓦を作ったとされています。
この安部難波吉師が安部氏になったと思われます。安部氏は大彦を祖としています。大彦は台与です。~第196話:阿部(安部)氏~岸辺(吹田市)
、第654話:卑弥呼の残像:元伊勢(1)~吉志部神社(吹田市)
大阪市内でも堀江の掘削などの大事業で台与が活動してきたことは、大阪と邪馬台国シリーズで書きました。玉造も、台与の拠点地だったと思われます。
難波から大和(奈良県)への古道には、大坂道(穴虫越え)・当麻道(竹内峠越え)などさまざまなコースがあり、暗峠・奈良街道のルートは重要な街道でした。
中臣氏の大和と河内を結ぶ史脈の要路であり行基*が活躍した行基道のひとつでもあります。いわゆる畿内の郡県制(アガタ)制ともかかわりをもった古道です。
*行基と台与の不思議な関係については、観音信仰と台与で書いています。
京都大学名誉教授の上田 正昭氏は、「難波の玉作部、河内の玉作部などとともに関連を保有した古道のなかに、暗峠・奈良街道もある。玉造稲荷神社に難波・玉造資料館が造立されたのも、歴史的に意義深い。」とされておられます。
玉造稲荷神社は、豊臣時代に引き続いて徳川時代も大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称していました。江戸時代には伊勢参りの出発点とされていました。
玉祖命(たまのおやのみこと)は、玉造部(たまつくりべ)の祖神とされており、別名は玉屋命(たまのやのみこと)、豊玉者(とよたまのみこと)です。高御魂命の孫とする伝承があります。高御魂命は、高木神=難升米=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。
ウツシコオの孫は台与です。玉造部(たまつくりべ)の祖神である豊玉者(とよたまのみこと)とは台与です。
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<蛇足の追記>
玉造は、私にとって非常に懐かしい場所です。なぜなら大阪女学院*があるからです。
*:ウヰルミナ女学校(Wilmina Girls’School、維耳美那女学校)
私は男子ですが、母、姉、妹、姪はこの大阪女学院に通っていました。
姪の何年か下の後輩に女優の北川景子がいます。
小学生の頃は、何度もバザー、クリスマス会などで大阪女学院に行きました。ヘールチャペルではトムとジェリーを大画面で見ました。
*我が家は、先祖代々、知恩院を本山とする浄土宗です。
玉造はキリスト教の拠点地です。先日、行われたコンクラーベ(ローマ法王を決める選挙)では玉造の司祭である前田万葉氏も立候補しておられました。
大阪城の南に越中井(細川忠興屋敷跡・細川ガラシャ最期の地)があります。
そのすぐ南に、聖マリア大聖堂カトリック玉造教会:別名「大阪カテドラル」があり、そこには細川ガラシャ像と高山右近像があります。
<大阪と邪馬台国シリーズ>
第617話:大阪と邪馬台国:我孫子(あびこ)
第618話:大阪と邪馬台国:丹比(たじひ)
第619話:大阪と邪馬台国:苅田(かりた)
第620話:大阪と邪馬台国:諏訪(大阪市城東区)
第622話:大阪と邪馬台国:大桐(だいどう)・豊里
第623話:大阪と邪馬台国:姫島~大阪市西淀川区
第624話:大阪と邪馬台国:正雀(摂津市・吹田市)
第625話:大阪と邪馬台国:美木多(堺市南区)
第626話:大阪と邪馬台国:猪飼野
第627話:大阪と邪馬台国:鶴橋・小橋
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>

穂積氏 - Wikipedia
穂積臣 – 國學院大學 古典文化学事業
穂積氏 – 古代史俯瞰 by tokyoblog
<台与シリーズ>
hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)
https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)
https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与
https://www.hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇
https://www.hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??
https://www.hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山
hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 敏達天皇は台与(豊)
衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊) 雄略天皇は台与(豊)!
孝昭天皇は台与:日原は目原 飯豊王女は台与(トヨ)なのか?
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(2)大原足尼命はトヨ 大宜都比売(おおげつひめ)は台与
倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ?? 神八耳命は台与(豊)
饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
小楯姫は台与:小楯は枚方 四道将軍:日子坐王は台与!
少彦名大神(スクナヒコ)は台与! 大彦は台与!??
ウマシマジは台与! 阿蘇都媛は台与
沼河比売は小楯姫=台与 タケミカヅチは台与!!
ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社
継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) 英彦山と台与
山部赤人は台与! 八幡神は台与!!
とよ(乎止与命・台与・臺與) 台与の物語