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秋葉神社と秋葉原

  • tootake
  • 2 日前
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更新日:2 日前

第1132話


秋葉山本宮秋葉神社は、静岡県浜松市天竜区春野町領家にあります。

祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)です。

秋葉神社は、江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社*(あきはごんげんのやしろ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆の山でした。


火之迦具土(かぐつち)は台与です。火の付く神はすべて台与であることは、このブログで述べてきました。*権現も台与のことです。~第720話:中臣印達神社:権現は台与

第216話:五十鈴姫は鉄の神では、「ホト・タタラ・イスケ・ヨリヒメのホトは鞴(ふいご)、蹈鞴(たたら)です。

*五十鈴は台与です。~第76話:とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中

たたら製鉄とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名前です。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できます。」と書きました。~第703話:花窟神社(はなのいわやじんじゃ)を考える


秋葉山本宮秋葉神社(浜松市天竜区)がある遠江(静岡県西部)から天竜川流域にかけての地域には、古代の青銅器(銅鐸)出土地や古代~中世の鉄器・鍛冶に関連する遺跡が数多く存在します。天竜川・敷地川を下った山麓や丘陵地帯は、弥生時代後期の青銅器「三遠式銅鐸」の主要出土地帯です。秋葉神社近辺の山間部(旧龍山村・春野町域など)には銅鉱脈が存在し、江戸時代以降には「峰之沢鉱山」などで大規模な銅採掘が行われていました。


・西の谷遺跡(磐田市敷地 / 旧豊岡村)は、 秋葉神社から南へ進んだ山麓近くに位置し、弥生時代後期(2世紀頃)の青銅器である敷地1・2・3号銅鐸が出土した有名な埋納遺跡です。

・松東遺跡・森西遺跡(浜松市)は、三遠式銅鐸の破片や関連資料が出土しており、古代の青銅器祭祀や流通の痕跡を示しています。

・都田前原遺跡・滝峯才四郎谷遺跡(浜松市)は、 天竜川西岸の丘陵地帯に位置し、ほぼ完全な形の大型銅鐸(三遠式・近畿式)が埋納された状態で発掘されています。

・天竜川下流域や秋葉街道沿いの平野・丘陵部では、古墳時代~奈良・平安時代の鉄製品や鍛冶工房跡が確認されています。

・松東遺跡(浜松市)では、奈良時代~平安時代前期の集落跡から、建物跡とともに鍛冶(鉄製品の加工)の痕跡が出土しています。

・天竜川流域の横穴墓群(二俣・平口周辺など)では、古墳時代後期~飛鳥時代の横穴墓から、多数の鉄剣・鉄刀・鉄製馬具・工具類が出土しており、当地域で鉄器が盛んに使用・所有されていたことが分かっています。


これらの遺跡があることから台与とスサノオウツシコオ(内色許男命)=難升米の一族がこの浜松・天竜川付近にもいたであろうことが推測できます。


これらの遺跡は、いづれも「火」を使う遺跡であることから秋葉神社は火防(ひぶせ)の神とされるようなったされています。秋葉神社の祭神である「火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)」は火を司る神であり、古くから消防・火防(=火防)だけでなく、鍛冶・製鉄・金属加工・工業全般の守護神として深く信仰されてきました。


関東で秋葉神社が多くあるのは、江戸では火事が多かったからです。

江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた通り、木造家屋の密集と冬の乾燥した北風により、大火が頻発しました。火事に怯える江戸の町民や武士にとって、火災除けの祈願は切実な課題であったため、関東一円で急速に秋葉信仰が受け入れられました。


徳川家康はかつて浜松城を拠点としており、秋葉山を深く信仰していました。江戸幕府が開かれた際、江戸に入った譜代大名(旧浜松城主や遠江にゆかりのある武士など)が、自身の屋敷内に火防の神として秋葉権現を祀る(勧請する)例が多く見られました。

江戸の現地庶民らは、「秋葉講(あきばこう)」と呼ばれる宗教組合を結成し、遠州浜松までの参拝旅費を出せない町民たちが金を出し合い、代表者を秋葉山へ参拝に行かせる(代参)システムが作られ、地域ごとに火防を祈願して秋葉の祠や神社を建立していきました。


「秋葉原」という地名自体も、江戸〜明治初期の火災対策に由来します。

1869年(明治2年)に神田で大火が発生した際、明治政府は火災延焼を防ぐための空地(火除地)を整備し、そこに火鎮(鎮火)の神社を建てました。人々がそこを「秋葉様が祀られている原っぱ=秋葉原(あきはばら)」と呼ぶようになり、のちに秋葉原駅の地名へと定着しました。


「秋葉原」という地名の誕生には、秋葉神社(秋葉信仰)が直接関係しています

ただし、歴史的には「本物の秋葉神社を建てたつもりではなかったのですが、人々が勘違いして『秋葉様』と呼び始めたこと」がきっかけという、少し面白い経緯があります。

1869年(明治2年)、現在の秋葉原周辺(神田相生町など)で約1,100戸を焼く大火災が発生しました。明治政府は延焼を防ぐための空地(火除地)をこのエリアに整備しました。

火除地に火災鎮護を祈願するため、明治天皇の勅命により「鎮火神社(ちんかじんじゃ)」という神社が建てられました。この時にお祀りされたのは、記紀神話の火・水・土の神様(火産霊神・水波能売神・埴山毘売神)でした。


当時の江戸・東京の庶民の間では、静岡の秋葉山(秋葉山本宮秋葉神社)を信仰する「秋葉信仰(火防の神)」が空前のブームでした。

そのため、広場に火除けの神社が建つと、町民たちは「火事除けの神社だから、静岡から秋葉様(秋葉大権現)を祀ったのだろう」と勘違いし、その周辺の空地を「秋葉の原(あきばのはら・あきばっぱら)」と呼ぶようになりました。


人々の間で「秋葉様」の呼び名があまりにも定着したため、神社側も1880年代頃に正式名称を「秋葉神社」へと改めました。その後、1890年(明治23年)にこの火除地(神社があった場所)へ新しい鉄道駅が開業した際、その通称をとって「秋葉原(あきはばら)駅」と名付けられ、地名として正式に定着しました。

当時の秋葉神社は、秋葉原駅の建設に伴い移転させられました。

そのため、現在「秋葉神社」は秋葉原駅の場所にはなく、少し離れた東京都台東区松が谷(入谷駅や上野駅の近く)に鎮座しています。


現在の秋葉原は、世界的な電気街およびサブカルチャー(アニメ・ゲーム・アイドル等)の聖地として知られる東京の繁華街です。アニメグッズ、フィギュア、ゲームショップ、メイドカフェなどが集中し、国内外から多くの観光客やファンが訪れます。


その秋葉原が浜松の秋葉神社に由来し、その秋葉神社が邪馬台国(ヤマト)の初代大王である台与に関連があるのは、なんとも興味深い事実です。


これまでの記事はこちらです。


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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、タケミカズチとフツヌシ、神功皇后と武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





 
 
 

3件のコメント

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E6%9D%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE 苗村神社

滋賀県蒲生郡竜王町綾戸にある苗村神社の祭神である。竜王

『近江蒲生郡志(大正11・1922)』によれば、

*「苗村神社は苗村大字綾戸に鎮座す。延喜式神名帳本郡十一座中の「長寸神社」にして、鎮座年代は上古に属す。那牟羅彦神(ナムラヒコ)・那牟羅姫神(ナムラヒメ)・国狭槌尊(クニノサツチ)を祭神とす。

*『日本書紀』の垂仁紀3年3月の新羅王子天日槍(アメノヒホコ)来朝の条に、「天日槍は宇治川を遡って、近江国の吾名邑(アナムラ)に入って暫く住んだ。また近江より若狭国を経て、西のかた但馬国に至りて即ち住処を定めた」とあるが、吾名邑は後に那牟羅(ナムラ)と略称され、長寸の假字を用ひ、其他(地の誤記か)の主神たるにより長寸神社と称し、やがて神名帳に加列された

景行が皇后に選んだのは播磨稲日大郎姫(吉備氏の娘でヤマトタケルの母親、和邇氏の彦汝命が父親)という女性でしたし、彼が都を築いた場所も桜井市穴師という土地でした。その大王を滋賀の「穴太」の地に誘ったのは稲背入彦その人ではなかったのか?(「播磨国風土記」飾磨郡には穴師の里・右、穴師というは、倭の穴无の神の神戸に託きて仕え奉る、故、穴師と号す、とあります)もっと勘ぐれば垂仁が纏向に営んだ都を、眼と鼻の先の「穴師」に移させたのも彼の「提案」だったのではないのか?そもそも、垂仁三年春三月に播磨国宍粟邑にやってきて、

莵道河より遡り、北の方、近江国の吾名(あな)邑に入りて、暫く住んだ


江野洲の兵主大社縁起によれば、兵主大社 - Wikipedia


当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師に神地を占し兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。


大和の日代宮近くに穴師坐兵主神社を創始したのも稲背入彦皇子です。


編集済み
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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<台与シリーズ>

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