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彦狭知の物語(3)~安曇氏

  • tootake
  • 2月12日
  • 読了時間: 6分

更新日:2月13日

第591話 #彦狭知 #安曇氏 #忌部氏 #邪馬台国


和名類聚抄では、紀伊国名草郡に忌部郷(いんべ)が見和歌山県和歌山市鳴神の鳴神社付近のこととされています。祖神は彦狭知命(さちひこ)です。


しかし、彦狭知命(ひこさち)は阿曇氏(安曇氏)だと思われるのです。

経津主大神を祀る香取神宮のカトリは「楫取 = かじ(舵)取り」という古名から、古くは航行を掌る神として祀られたという見方もあります。経津主大神は彦狭知命(ひこさち)です。~彦狭知(ヒコサチ)の物語(1)~経津主神


彦狭知命の父の手置帆負神とされており、名前に帆がついていることから船乗りであったことが想像できます。彦狭知命(ひこさち)も船の操作にも長けていたほずです。


古事記では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記され、新撰姓氏録では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記されています。

第361話:宇都志国玉神と宇都志日金拆命では宇都志日金拆命(うつしひ・かなさくのみこと)はウツシコオとしました。


日本書紀によると、ウガヤフキアエズの母である豊玉姫は海宮(わたつのみや:舟の中)で懐妊し、海原で産むことはできないと海辺に上がり出産の準備をはじめます。 

産屋のすべてを鵜(う)の羽を草(かや)として利用しますが、屋根の頂上部分をふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられた。とあり、この状況からトヨタマヒメが名付けたとされます。


この上記の文で分かってしまいました。ウガヤフキアエズは和歌山県の名草で生まれたのです。波瀲(なぎさ)は名草です。名草の由来について紀伊続風土記に「ある説では渚の意味なり」と記されています。トヨタマヒメが草(かや)から名付けたとされることから、草で名づける:名草という地名になったのです。~第256話:ウガヤフキアエズのミコト


前回、彦狭知(ヒコサチ)の物語2~珍彦(ウズヒコ)では彦狭知(ヒコサチ)は和歌山和歌山市=名草の生まれとしました。彦狭知(ヒコサチ)=ウガヤフキアエズということです。


播磨国風土記によれば、阿曇百足は難波の浦に住んでおり、のちに揖保郡に移住したといいます。揖保郡といえば、第534話:斑鳩寺・稗田神社~兵庫県太子町第535話:佐比の岡~兵庫県太子町で書いた太子町のある地です。


・市辺押磐皇子は、履中天皇(第17代)ですが、やはり大泊瀬皇子(雄略天皇)によって殺されています。その子である億計(オケ)・弘計(ヲケ)兄弟は難が及ぶのを恐れ、舎人とともに丹波を経て播磨国赤石(明石)に逃れます。この播磨国赤石(明石)もやはり揖保郡の隣接地です。~履中天皇(第17代)~大江

「太田と称するわけは、昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた、その後、分かれて摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきて、それが揖保の太田の村に移住して来た。これは元居た紀伊の国の太田をとって里の名とした。」 


阿曇百足も武内宿祢=ウツシコオと思われます。足は宿祢と同じ意味です。~第324話:武内宿禰はウツシコオ!! 


百足が難波で住んでいたのは、曇江荘(住之江=住吉)があった現在の大阪市西成区堀江地区で、日本書紀に見え、後に安曇氏が氏寺とした「阿曇寺」は、大阪市中央区安堂寺町にあったと考えられています。このことから、安曇氏は摂津国西成郡をも拠点としていたことが分かります。

摂津国西成郡は、第479話:継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社で書いた大阪の難読地名でよく登場する喜連(きれ;平野区喜連町)の近くです。


また平野区喜連町、西成区は住吉大社(大阪市住吉区)の近くでもあります。住吉大社の祭神は、底筒男、中筒男、表筒男、神功皇后ですが、この三筒男はウガヤフキアエズの命なのです。八幡愚童訓には、「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)は住吉明神御事也」とあります。佐藤陽太著「神武天皇と卑弥呼の時代」p82

住吉明神=武内宿祢=ウツシコオ(内色許男命)です。


福岡県福岡市東区志賀島にある志賀海神社は、安曇氏の神社で、ここでは安曇氏の始祖は海神であるとされていますが、住吉大社も安曇氏と関連の深いと思われます。

八幡愚童訓では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしています。


黛 弘道(学習院大学名誉教授)氏は、阿曇連浜子が住吉仲皇子と組んだ背景には、「住吉」と「阿曇」がいずれも難波(摂津)の地名で、2名が地縁上、親しい間柄にあったことを示しており、上記に述べたように、阿曇氏が拠点を難波に移して勢力伸張をはかったことを現していると述べておられます。淡路島の海人集団との繋がりもみられ住吉仲皇子の伝承でも浜子に率いられて、「淡路の野嶋の海人」が暗躍しています。


住吉仲皇子(墨江之中津王)は、反乱を起こした際に安曇連浜子らに率いられた淡路野嶋の海人や倭直吾子籠(やまと の あごこ)らが墨江仲皇子に加担するなどの具体的な記述があります。~第584話:反正天皇(第18代)は、、、


<まとめ>

・彦狭知(ヒコサチ)はウガヤフキアエズ

・彦狭知(ヒコサチ)は海人(わたつみ)=熊野水軍の元祖とおもわれます。

彦狭知(ヒコサチ)はウツシコオ(内色許男命)=ウズヒコ=シイツネヒコ・サオツネヒコ、塩土老翁(シオツチオジ)、浦島太郎です。さらに言えば、阿曇磯良、ウガヤフキアエズ、天児屋根命です。


・大阪市住吉と志賀海神社のある福岡県福岡市東区志賀島に瀬戸内海を利用して頻繁に行き来していたとお思われます。志賀島は鹿の島です。鹿はウツシコオのシンボルです。

彦狭知(ヒコサチ)=ウツシコオは角の付いた兜をかぶっていたと思われます。

第374話:牛鹿臣はウツシコオ!





※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






 
 
 

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