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上宮記・薬師如来光背銘:聖徳太子の嘘

  • tootake
  • 2 日前
  • 読了時間: 5分

更新日:2 日前

第905話


上宮記は、7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書です。日本書紀や古事記よりも成立が古いとされています。釈日本紀:巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、古事記・日本書紀の欠を補う史料として研究上の価値が高いとされていますが、その内容は疑わしいのです。「上宮」とは厩戸皇子が幼少・青年期を過ごした宮(奈良県桜井市)のことです。


上宮記の内容の信憑性を疑う研究者は多数です。

・関根淳氏は、上宮記は山背大兄王が自らの権威づけのために聖徳太子を賞賛した史書を作成させたものとし、その注は太子信仰を生み出し続けた法隆寺の僧侶が書いたものであると推定しています。

・井上光貞氏は、上宮記は七世紀の宮廷での創作ではないかとしておられます。

・山尾幸久氏は、上宮記逸文の原史料は、推古朝まで遡るのは難しく七世紀末か八世紀初めに書かれたと見ておられます。

・堀大介氏は、上宮記は古事記、日本書紀の、あとから書かれたのではないかと考えておられます。

・井上光貞氏、山尾幸久氏は、七世紀から八世紀にかけて造作されたものと指摘しておられます。

・堀大介氏は、上宮記の系図は、記紀の系図の埋まらない部分を埋めるため、あとから創作した。と考えておられます。~上宮記 - Wikipedia


聖徳太子の実在を示す資料として、用いられる資料としては、他にも法隆寺金堂薬師如来像光背銘があります。


薬師如来光背銘は、法隆寺金堂に安置される薬師如来像の光背の裏面に刻された90文字の銘文です。本銘文は年紀を有する金石文として法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とともに特に著名なものです。本銘文には法隆寺の創建と薬師如来像の造像の由来が記され、推古天皇15年(607年)の年紀を有することから、法隆寺の創建事情にかかわる基本的な資料の1つとなっています。しかし、像の制作年代および銘文の記された年代を文字どおり推古天皇15年(607年)とみなすことは、否定されており、実際の制作年代は法隆寺金堂「中の間」本尊の釈迦三尊像(推古天皇31年 = 623年)より遅れるものとみなされています。


<薬師如来光背銘>

池辺大宮にて天下を治めし天皇、大御身なり。労,時を賜れり。

 歳次丙午ひのえうまの年,大王天皇と太子を召して誓願賜る。『我が大御病を太平とし,坐ざせんと欲す』

 故に将に寺を造り、薬師像を作らんとし、詔を奉じ仕つかまつる。

 然るに,当時,崩じ賜り,造るに堪たへず。

 小治田おはりだ大宮にて天下を治めし大王天皇,及び東宮聖王は大命を受け賜り,歳次丁卯ひのとうの年,奉じ仕まつる。


※この文章の中には、三人の人物が登場しています。天皇、大王天皇、太子でそれぞれ、

天皇=用明天皇、大王天皇=推古天皇、太子=聖徳太子のこととされていますが、天皇と大王天皇が同時に存在するのは変です。そもそも天皇という称号が使用されるようになったのは、7世紀の天武天皇からとされています。用明天皇、推古天皇、聖徳太子よりも少し後です。


上宮記、薬師如来光背銘は、事実を書いた歴史書ではなく聖徳太子が実在したかのように見せかけるように創作されたものなのです。


天皇=用明天皇、大王天皇=推古天皇、太子=聖徳太子は台与です。


そして、前回:丸岡と継体天皇~福井県坂井市では、上宮記の、まとまった逸文は継体天皇と聖徳太子関連の系譜で占められるのも奇妙です。

と書きました。実在したと思われる継体天皇についても、上宮記が信用できないとすれば、継体天皇も実在したというのも信用できません。


聖徳太子と継体天皇が台与であることを隠すために書かれたものだと思います。


次回に続く(予定)


関連項目:第781話:日出処天子の嘘

    :第540話:広隆寺と聖徳太子立像


これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれている13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>



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2件のコメント

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tootake
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tootake
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