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ヤマトタケルの足跡を訪ねて(6)  ~熊野皇大神社・生島足島神社

  • tootake
  • 1 日前
  • 読了時間: 6分

第696話 #生島足島神 #碓井権現 #ニギハヤヒ


熊野皇大神社(くまのこうたいじんじゃ)は、碓氷峠に位置する神社です。

社殿は群馬県安中市と長野県北佐久郡軽井沢町にまたがっており、参道と本宮の中央を県境が通っています。本宮は伊邪那美命、日本武尊(ヤマトタケル)、長野県側の那智宮は事解男命*を祀っています。群馬県側の新宮は速玉男命を祀っています。

*事解男命=事代主=スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)です。


熊野皇大神社は、碓井権現と呼ばれ、記録では、「日本武尊(ヤマトタケル)東夷征伐凱旋の際、碓井坂において、神武天皇の故事を偲び、熊野三社を勧進せらてといいます。中央本宮は信州上州両国に跨り、右方新宮は上州、左方那智宮は信州分に鎮座し、併せて熊野神社という」とあります。~原田常治氏の古代日本正歴史p133


社伝によれば、日本武尊(ヤマトタケル)が碓氷嶺に登った際、急に濃霧で進めなくなったといい、そのとき一羽の八咫烏(ヤタガラス)が現れ、紀州熊野の梛木(ナギ)の葉をくわえ、落としながら先導し、それについて行き山頂に至ることができたといいます。

日本武尊は碓氷峠の山頂から遠くの海を眺め、相模灘で荒波を静める為に海中に身を投じた最愛の妻、弟橘姫(オトタチバナナヒメ)を偲び「吾嬬者耶(アヅマハヤ)」「ああ、いとしき我が妻よ」と三嘆したと伝えられており、この事から、この山を「長く悲しんだ山」と言うようになり、それがにごり長倉山になったといいます。そして、日本武尊はこの八咫烏の導きを熊野神霊の御加護によると考え、ここに熊野三社を祀り、景行天皇の御代に勧請したと伝えられています。


八咫烏の逸話は明らかに、古事記からの引用です。八咫烏はスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)です。~第274話:八咫烏もウツシコオ 

このブログの第543話:熊野の神々は、、、では、熊野速玉大神が台与(豊)で、熊野夫須美大神がスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)としています。

熊野の神が、台与とウツシコオであることはすでに述べています。~第543話:熊野の神々


佐久郡の地名由来として、宇都志日金拆命が開拓したので「拆(サク)」となったという説があります。穂高岳に降臨し、信濃国の安曇氏の祖となったともされています。

宇都志日金拆命(うつしひ・かなさくのみこと)は綿積豊玉彦神(わたつみ)の子とされ、安曇氏、安曇犬養氏、海犬養氏の祖とされています。別名は穂高見命(ほだかみのみこと)です。長野県安曇野市穂高の穂高神社には対馬の豊玉彦の子である穂高見命が穂高岳に降臨し、安曇野地方を開拓したと伝わっています。~第361話:宇都志国玉神と宇都志日金拆命


生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)は、長野県上田市下之郷にあります。

生島大神(いくしまのおおかみ)、足島大神(たるしまのおおかみ)を祀っています。

生島大神は万物を生み育て生命力を与える神で、足島大神は国中を満ち足らしめる神です。朝廷とつながりの深い神々であることが知られています。

生島足島神は、饒速日尊(ニギハヤヒ)の事とされています。~信濃国統一(古代史の復元)


生島足島神社の伝承によると建御名方命(タケミナカタ)は生島足島神(饒速日尊)に奉祀した事になっています。饒速日尊が滞在している処へ建御名方命がやってきたとされています。生島足島神社の社伝では、建御名方命が諏訪へ向かっていた時、この地に留まり、生島・足島両神に米粥を煮て献じたといいます。伝承自体は現在も特殊神事の「御籠祭(おこもりさい)」に名残を残しています。


ヤマトタケルの足跡を訪ねて(1)~飯野山神社では、日本武尊(台与)が兵粮が尽きて困り果てていた際に、老翁(ウツシコオ)が忽然と現れて米を炊いて日本武尊に献上します。

ヤマトタケルの足跡を訪ねて(4)~酒折宮では、日本武尊が塩海足尼(ウツシコオ)を召して甲斐国造に任じて火打袋を授け、塩海足尼がその火打ち袋を神体とする社殿を造営して創祀したと伝わっています。

このことにより、建御名方命(タケミナカタ)は、スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)で生島足島神(饒速日尊)は台与であることが分かります。

老翁=塩海足尼=建御名方命(タケミナカタ)=ウツシコオということです。

饒速日は台与であることはすでに述べています。


伝説では、穂高見命率いる安曇一族はそのまま南下し、青木湖、木崎湖を経て大町市に到着します。そこから高瀬川に沿って下り、穂高の地に落ち着きます。 穂高の地に着くと、周辺の地形を確認するため梓川を遡り、穂高岳から見渡せる一帯を開拓しました。それが、 今の安曇野市です。安曇一族とは、ウツシコオと台与のコンビです。


第686話:新海三社神社~佐久市では次のように書きました。

興波岐命は、佐久の開拓神です。興波岐命の父神は諏訪の建御名方命で建御名方命と事代主命は国土経営に大功をたてられ、興波岐命の御父神、御伯父神であらせられるので、ともに斎祀して新海三社神社と称するに至りました。佐久郡の人々は興波岐命の神恩に感謝したと社伝にありますので、興波岐命(おきはぎのみこと)も台与でしょう。台与は北日本各地で地域を開発し感謝されています。


<ヤマトタケル=台与の足跡をたどる>


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>

   





日本武尊(ヤマトタケル)



 
 
 
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