第603話 #出雲と鉄 #邪馬台国
第261話:スサノオと和歌山(熊野)では、次のように書きました。
素戔嗚(スサノオ)や大国主は、今の出雲と呼ばれている地域には行ったことがない!と私は思います。何が言いたいかというと素戔嗚や大国主の活躍の場は紀州(和歌山県)であって決して出雲ではないということです。~スサノオ(素戔嗚)~木の国と出雲
第63話丹・朱を求めた天皇たち 第73話:鬼道はサイエンス ~古代天皇は技術者&ビジネスマンで書いたように、古代の大王(天皇)は大穴持ち、穴は鉱山、つまり鉱山の経営者だったのです。そして、この時代に大穴持ち=鉱山経営者=大王が求めていた鉱物は朱(水銀)と鉄です。
そして出雲は邪馬台国の時代には、鉱物資源が乏しかったのです。だから、スサノオや大国主(倭国の大王)は出雲には行かなかったのです。
出雲は古代から鉄王国というイメージが強く、出雲国風土記にも鉄に関する記述が多く記載されているとお思いきや、実はとても少ないとされるのは、出雲学の藤岡大拙氏です。
出雲国風土記には、飯石郡の波多小川(神戸川水系)および飯石小川(斐伊川水系)を記した部分に、鉄に関する記述が認められます。
「波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐しこい山より出で、北に流れて須佐川に入る。鐵あり。」
「飯石川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮山より出で、北に流れて三刀屋川に入る。鐵あり。」 というものです。 また、仁多郡条には、横田郷、三処郷、布施郷、および三澤郷の4つの郷を指して、「以上の諸々の郷より出す所の鐵、堅くして、尤もっとも雑具(くさぐさ)のものを造るに堪たふ」との記述があります。
「鐵」とは鉄を指します。これらの記述から、当時、出雲国には川から採取した砂鉄から鉄を作り、鉄器に加工する技術が存在し、田畑の耕作や収穫に使われる農具や日用具などが生産されていたことがわかります。以上が、出雲国風土記に書かれた鉄に関する記述のすべてです。
出雲国風土記が編まれた今からおよそ1300年前(邪馬台国よりおよそ千年後)で、ちょうどそのから出雲地方で砂鉄が採れるようになったのです。
弥生時代に、朝鮮半島から持ち込まれた原料を用いた製鉄が始まったと考えられてきました。ただしこの説の根拠とされる遺跡の炭素年代の検討には疑義があり、確たる説と認められるには至っていません。文献学的な見地で見た場合、記紀における内容や「多多良」という加羅の王姓氏、和名の発生時期などから、5世紀前後には国内製鉄が行われていた可能性が指摘されています。考古学的に信頼できる確かな証拠としては、6世紀半ばの吉備地方にです。ここでは、最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは砂鉄を原料として使用していました。国内で調達が容易な砂鉄を原料とすることで、製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播したとみられています。
◎出雲地方で「たたら製鉄」が盛んになったのは江戸時代の後期です。
邪馬台国の時代は3~4世紀ですので、砂鉄を利用した製鉄が行われていませんでした。
ですから、ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=彦狭知(ヒコサチ)はその当時鉱物資源のない出雲地方には行かなかったのです。
大阪府東大阪市出雲井町に枚岡神社があります。そして京都の下賀茂神社のすぐそばに出雲路という地名があります。枚岡神社は、中臣氏の神社です、下賀茂神社は鴨氏の神社です。中臣氏の祖である中臣烏賊津と下賀茂神社の賀茂建角身命(カモ・タケツノミ)は同一人物でウツシコオ=彦狭知(ヒコサチ)です。~中臣氏~中臣烏賊津 彦狭知の物語5~賀茂建角身命 (hidemaru3375.com)
ひょっとすると出雲とはスサノオのことかもしれません。
出雲大社が建てられたのと、出雲で砂鉄が利用されるようなったことと出雲国風土記、古事記・日本書紀が創作されたのは、およそ1300年前で時期が全く同じです。
出雲にもウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)のような英雄が欲しかったのでしょう。
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そもそも出雲には神話にふさわしい遺跡(文明)がないというが通説でした。ところが、昭和59年(1984)の荒神谷遺跡の発見によってその通説は吹き飛んでしまいました。荒神谷遺跡から、銅剣358本と銅鐸6個、銅矛16本が出土したのです。さらには平成8年(1986)、加茂岩倉遺跡が発見され、39個の銅鐸が出土しました。
驚き喜んだ学者たちはすっかり勘違いをしてしまいます。銅剣・銅鐸が発掘されたということは、出雲に文明があったということではないのです。文明(当時)の無いところに、銅剣・銅鐸を持ってきて捨てたというだけのことです。荒神谷遺跡で発見された銅剣・銅鐸は近畿地方で作られたものです。~銅鐸・銅剣は廃棄物
出雲では銅剣・銅鐸の鋳型は発見されていません。鋳型は大阪府茨木市の東奈良遺跡から多数発見されています。
台与(豊)がヤマト(邪馬台国)の大王として即位したころから、鉄器が普及し始め銅剣・銅鐸は不用品になったのです。
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<蛇足の追記>
出雲風土記では、大国主は大穴持ち(オオナムチ)とされていません。なぜなら出雲地方には鉱山がないからです。砂鉄は川から採れるもので鉱山ではありません。
記紀の作者たちも、出雲(島根県)には鉱山(おおあな)が無いことが分かっていたため、
大穴持ち(オオナムチ)とするわけにいかず大国主を創作したのです。
大穴持ち→おおなむち→大名持ち、この連想でついでに小名持ち 少彦名(スクナヒコ)が創作されたのです。~第562話:大国主:創られた神
関連項目:第41話:出雲神話の真実
:第408話:出雲の神々の正体!
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけ!??としています。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
かつての出雲大社は96メートルもある高層建築でした。しかし調査の結果ではそれを支えていた柱(うず柱)は室町時代のもので、邪馬台国の時代よりかなり後のものです。

https://www.koyasan-u.ac.jp/laboratory/pdf/kiyo30/H30_2p_160_%e5%a4%a7%e6%9f%b4%e6%b8%85%e5%9c%93.pdf
<台与シリーズ>
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