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聖徳太子の四天王:迹見赤檮

tootake

更新日:1月18日

第564話 #迹見赤檮# #聖徳太子 #台与(豊) #四天王


大阪にある四天王寺(通称;天王寺)の四天王とは誰のことでしょう。


本来の四天王(してんのう)とは、梵:チャトゥル・マハーラージャ仏教における神々で、四大王衆天で四大王(しだいおう)とも言います。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天の四神です。それぞれ須弥山・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護しています。


四天王寺(天王寺)の四天王は、どうやら、蘇我馬子、小野妹子、迹見赤檮、秦河勝であるようです。はじめに言っておきますが、聖徳太子は台与です。~広隆寺と聖徳太子立像


大阪府八尾市にある大聖勝軍寺には聖徳太子像と四天王像があります。

用明天皇2年、崇仏派の蘇我馬子に組した聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立するとともに、八尾の大聖勝軍寺にも太子堂も建立されました。


大聖勝軍寺では、持国天=蘇我馬子、多聞天=秦河勝、広目天=迹見赤檮、増長天=小野妹子としています。蘇我馬子、秦河勝についてはすでにこのブログでかいていますので今回は迹見赤檮(とみ の いちい)について考えてみます。


迹見氏(とみ)は、新撰姓氏録では毛野氏族に属する皇別氏族とされています、渡来系氏族とする説、あるいは、赤檮の出自である迹見首は毛野氏族の登美首・止美首とは別系統であり、物部氏の一族で鳥美物部の伴造氏族とする説もあります。また、跡見家の伝承によると、天児屋命の子・天種子命の末裔であるといいます。迹見氏の「とみ」は登美はでしょう。長髄彦は登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記されています。そして登美氏(富氏)は多氏(おおし)ではないかと私は考えています。大氏は日本最古の皇別氏族とされています。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、多氏のうち、畿内の本流一族は大和国十市郡飫富郷に住み、古事記の編者である太安万侶もこの一族です。そして、多氏は神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされています。

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蘇我馬子は、物部討伐を決め、聖徳太子と大軍を起こして守屋の本拠河内国渋川郡へ向かった。軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築き頑強に抵抗し、守屋は朴の枝に登って雨のように矢を射かけた。討伐軍は3度撃退されてしまう。従軍していた厩戸皇子は四天王像を刻んで戦勝を祈った。討伐軍は奮い立って攻め立てた。赤檮は守屋のいる大木の下に忍び寄り、守屋を射落とした。物部守屋の軍勢は逃げ散った。


戦後、殊勲者の赤檮は物部氏の遺領から一万田を賜与された。八尾市南太子堂には迹見赤檮が物部守屋を射たときの矢を埋めたとされる鏑矢塚、その南西には弓を埋めたとされる弓代塚がある(迹見赤檮発箭地史蹟)。


と書かれていますが、作り話です。この話は、武埴安彦(タケハニヤス)の乱の時にも使われています。


武埴安彦と彦国葺とによる矢の射ち合いとなったが、まず先に放った武埴安彦の矢は当らず、次に彦国葺の放った矢(漏れ矢=守屋)が武埴安彦の胸に当たったという。


守屋=洩矢神(もりや:もれや)は、長野県諏訪で祀られいる神です。

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迹見赤檮の主君は聖徳太子または、押坂彦人大兄皇子とされています。

第494話:忍坂(押坂)は忍が丘(四条畷)  では次のように書いています。


押坂彦人大兄皇子(おしさか・の・ひこ・ひとのおおえのみこ)は、敏達天皇の第一皇子で今の皇室は、この押坂彦人大兄皇子の男系子孫にあたるとされています。

この押坂彦人大兄皇子と似た名の天足人命(あめ・たらし・ひこ・くに・おしひとのみこと)は孝昭天皇の第1皇子で饒速日(ニギハヤヒ)の末裔とされています。

孝昭天皇は台与です。押坂彦人大兄皇子=天足彦国押人命=台与ということです。

饒速日も台与です。~饒速日(ニギハヤヒ)は台与

押坂彦人大兄皇子の子の桑田王(くわたのみこ)も台与です。~桑田皇女と奈具遺跡

・大兄=おおえ=大枝=太子=聖徳太子です。大枝神社:“たいし”は太子=台与


ところで、馬子や聖徳太子を台与とするなど、このブログの時代感覚は無茶苦茶だと思われていると思いますが、無茶苦茶なのは記紀の方なのです。記紀の元資料はおそらく、台与、ウツシコオが書き残したもので、藤原不比等ら記紀の作者の手元にあるそれしかなかったのです。邪馬台国当時、文字の読み書きができたものはほんの少数で、台与、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王が死んでしまってからは、日本には文字の読み書きができるものが誰一人いなかったのです。

倭の五王の時代の記録が全くないのがその証拠です。~hidemaru3375.com/post/倭の五王と辛亥の変・乙巳の変


台与、ウツシコオ(内色許男命)が残した資料を元に古事記・日本書紀を書いたということです。

稗田阿礼や太安万侶のが伝承してきたというのも全く信用できません。文字を使わない口伝ではせいぜい100年程度、不比等と卑弥呼・台与とでは500年の隔たりがあります

そんな昔のことを口伝えに残すのは不可能です。~稗田阿礼は藤原不比等?!


藤原不比等ら記紀の作者は、人物を創作するにあたっては台与、ウツシコオをモデルにするほかなかったのです。


迹見赤檮も台与(=聖徳太子)を助けるウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jan 15
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台与シリーズ>

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