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草岡の大明神桜~山形県と台与

tootake
3 時間前
読了時間: 6分

第1204話 #坂上田村麻呂 #天童 #最上川 #飯豊山


草岡の大明神桜(くさおかのだいみょうじんざくら)は、山形県長井市草岡にあるエドヒガンの一本桜です。樹齢はおよそ1200年、樹高18.8メートル、枝張23メートルから25メートル、幹周が10.9メートルあり、個人宅に植えられた桜としては最大の太さです。


この大明神桜の起源は、坂上田村麻呂が蝦夷を平定した際に記念植樹した5本の桜のうちの1本であると伝えられています。


大明神桜の近くに總宮神社(そうみやじんじゃ:山形県長井市)があります。

創建は延暦21年(802年)、坂上田村麻呂が東征の際に赤崩山白鳥大明神を祀ったのが始まりとされ、祭神は、日本武尊(ヤマトタケル)です。


このブログでは、坂上田村麻呂とヤマトタケルの伝説は13歳で邪馬台国の大王に即位した台与としています。


では、暴れ川(洪水を起こす川)と台与について書きました。

台与は日本各地で暴れ川の治水工事を行い、稲作を推進してきたのです。


坂上田村麻呂とヤマトタケルの伝承が山形県長井市にあるということは、台与がこの辺りにも居たということです。


長井市には最上川が流れています。最上川も暴れ川です。


最上川の洪水に関して、文献や史料に残っている歴史上最も古い記録および主要な古記録は以下の通りです。

記録上もっとも古い洪水(平安時代)~841年(承和8年)

続日本後紀に、出羽国(現在の山形県・秋田県)における大風水害の記述があり、これが最上川流域における文献上確認できる最古級の洪水・水害記録とされています。

・871年(貞観13年)~日本三代実録に出羽国で河川氾濫による大規模な水害が発生した旨が記録されています。

・江戸時代の主要な大洪水記録(詳細な記録が残る時代)

江戸時代に入ると、山形藩・庄内藩・米沢藩などの文書や各地の地誌に、具体的な被害状況が残されるようになります。

・1638年(寛永15年)~最上川下流(庄内地方・酒田周辺)での大水害の古文書記録。

・1659年(万治2年)「万治の大水」~最上川全域で氾濫が発生し、流域の村々に甚大な被害を与えた記録が残っています。

・1746年(延享3年)「延享の大水」~庄内平野を中心に広大な浸水被害をもたらし、流路の改修議論や堤防整備の契機となりました。

・1834年(天保5年)「午歳(うまどし)の大水」江戸時代最大級の最上川洪水とされる大水害。上流から下流まで全域で堤防が破堤し、壊滅的な被害を記録しました。


山形県長井市からは飯豊連峰(飯豊山:いいで山)の雄大な姿が大変良く見えます。

長井市は置賜(おきたま)盆地の北西部に位置しており、西側に視界を遮る大きな構造物が少ないため、市内の広範囲から西〜南西の方角にダイナミックな山並みを望むことができます。


  • 稜線と残雪のコントラスト

    標高2,000m級の主峰・飯豊本山をはじめとする飯豊連峰の稜線が一望できます(市内の詳細な位置によっては手前の前山に隠れる峰もありますが、連峰全体の存在感は非常に突出しています)。

  • 草岡地区(草岡の大明神ザクラ周辺):山麓の草岡地区からは山並みがより間近に感じられ、残雪の飯豊連峰と巨木桜をあわせたロケーションとして知られます。


飯豊山の名の由来には諸説あり、確定していませんが、福島県会津地方では、飯豊山を「いいとよさん」とも呼び、雪化粧した山容が飯を豊かに盛った様子に見えることから、この名がついたとされています。 陸奥国風土記逸文には飯豊山の名の由来について、以下の2つの伝承が記されています。


「この山は豊受比売神の神域であった。履中天皇の皇女である飯豊青皇女が物部氏を遣わして豊受比売神に御幣を奉納した。それでこの山を飯豊と呼ぶようになった」

「垂仁天皇の時代に飢饉が発生し、多くの人々が死んだ。そのため、この山を『宇惠々山』と呼ぶようになった。後に好字に改めて豊田と呼ぶようになり、さらにそれが変化して飯豊と呼ぶようになった」


飯豊(いいとよ)を歴史的仮名遣いで表記すると、「いひとよ」となります。「いひとよ」とは古代日本語でフクロウをさす言葉であり、それが語源であるという説もあります。


では、顕宗天皇(ヲケ)、仁賢天皇(オケ)の父親(市辺押磐皇子)は権力争いで雄略天皇に殺された為、二人は播磨国に逃げて、馬、牛飼いの奴隷になって身を隠した。 宴の席で、兄弟は舞を踊り、履中天皇の孫である事を謡の文句で示し、子供の居なかった清寧天皇はこれを受けて、宮廷に上らせ、自分の皇太子と皇子にする。と記紀にありこの二人、顕宗天皇(ヲケ)は弘計尊(をけのみこと)、仁賢天皇(オケ)は億計尊(おけのみこと)の兄弟をかくまっていたのが、飯豊王(飯豊王女)だという説も有ります。

仁徳天皇(ミミズク)=飯豊女王(フクロウ)=台与です。と書きました。

因みにヲケとオケも台与です。~第972話:億計(オケ)と弘計(ヲケ)


これらのことにより、最上川の治水工事のために山形県長井市を訪れたのだと思います。


西沼田遺跡(にしぬまたいせき)は、山形県天童市にある古墳時代後期の集落遺跡・低湿地遺跡です。山形盆地の最上川右岸低地上にある遺跡で、1985年(昭和60年)の県営圃場整備事業に伴う発掘調査で発見されました。陸奥国成立以前の東北地方における農村集落を示す重要な遺跡として1987年(昭和62年)に国の史跡に指定されています。

発掘調査によって掘立柱建物16棟や水田、川をせき止める井堰や、井堰から水田へ水を引き込む水路の遺構が確認されています。


「天童」の地名については、天から童子が舞い降りたという伝説に由来するとの説があります。天から舞い降りた童子とは13歳で邪馬台国の大王に即位した台与のことしょう。


暴れ川(洪水を起こす川)と台与の関係は、

などで書きました。


これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

<目次>






 
 
 

1件のコメント

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3時間前
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