小野氏を考える(1):小野篁
- tootake
- 34 分前
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第1063話
小野氏(おのし)は、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族です。孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を祖とする和珥氏の枝氏です。*孝昭天王は台与です。~第443話:孝昭天皇は台与
小野 篁(おのの たかむら)は、平安時代初期の公卿、文人です。
日本三大美人の小野小町、三跡(さんせき)*の一人である小野道風の小野道風の祖父ともされています。*三跡とは、平安時代中期に活躍した書道の能書家のことで小野道風、藤原佐理、藤原行成の3名を指します。
和歌もたしなんでおり、小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)と名乗っています。
小野 篁には、篁は昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が、江談抄、今昔物語集、元亨釈書といった平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に紹介されています。これらを典拠にして後世では冥官小野篁とも呼ばれています。
現実世界で司法を司る刑部少輔だった小野篁は、昼の内は朝廷で刑部少輔として働き、夜になると地獄に行って、閻魔大王の裁判団で裁判官をしていたというのです。
京都の東山にある六道珍皇寺には、篁が地獄へ出勤するときに使っていたという井戸があります。このような伝説が生じたのは、当寺が平安京の東の墓所であった鳥辺野に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り(のべのおくり)」をされた場所であったからです。、
六道珍皇寺は京都市東山区大和大路通四条下にあり、第864話:六波羅蜜寺と銭洗い弁財天で書いた六波羅蜜寺の近くです。六波羅蜜寺のある京都市東山区轆轤町は、本来は「髑髏(どくろ)町」でした。髑髏(どくろ)とは、もちろん、あのガイコツのドクロのことで、この地は、平安京の京都三大葬送地のひとつの「鳥辺野」の入口で、亡骸が運ばれてくる場所だったのです。当時、京都では庶民の亡骸は野ざらしにされ、自然に朽ちる風葬が主流だったといわれています。
小野篁は、先祖の小野妹子と同様に遣唐使になっています。
当時の渡航技術というのはけして高くなく、遣唐使船が無事中国までたどり着ける確率は低かったです。しかし3度とも渡航に失敗しています。2度の渡航に失敗した後、3度目の渡航のとき、遣唐使である藤原常嗣と、篁の乗る船二隻が用意されましたが、常嗣の船が出発前に水漏れして出航できなくなります。そこで、篁のほうの船に乗っていくと、勝手に朝廷に上奏してしまいました。本来自分が乗るべき船が奪われた形になった篁は、それを不服として役目をサボタージュし、そのまま日本に残ってしまいます。そして、西道謡という漢詩を作りました。その内容は現在伝わっていないものの、遣唐使を批判する内容だったようです
小野 篁はその反骨精神から野狂とも称され、野相公、野宰相といった異名もあります。
元亨釈書 では、矢田寺(金剛山寺)の滿米上人の項で、篁が閻魔大王に菩薩戒を授ける人物として上人を紹介しています。この伝説に基づき、京都矢田寺の梵鐘を「送り鐘」と称して六道珍皇寺の「迎え鐘」と対の存在としています。
矢田寺の本堂に安置する本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は、開山の満慶(まんけい)上人が冥土へ行き、そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものといわれ、俗に代受苦地蔵と呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めています。
矢田寺は、我が国の地蔵信仰発祥の地です。平安時代初めの弘仁年間に満米上人(まんまいしょうにん)と参議の小野篁(おののたかむら)により地蔵菩薩が安置されて以来、地蔵信仰の中心となりました。
余談ですが、あまり知られてはいませんが、地蔵は閻魔なんです。
“地獄で苦しむ衆生を救うために、地蔵が閻魔の姿をとっている” という中世仏教の教理・信仰に基づくものです。日本では平安末〜鎌倉期に広く定着し、寺院縁起・説話・絵巻にも頻繁に登場します。
小野篁は、冥府との往還には井戸を使い、その井戸は、京都東山の六道珍皇寺(死の六道:入口)と京都嵯峨の福正寺(生の六道:出口)にあったとされています。近年六道珍皇寺旧境内から井戸が発見され、六道珍皇寺ではこの井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称している。六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。
このブログは、邪馬台国が枚方を中心とした地域にあったことを証明するために書いているのですが、小野氏がどうして邪馬台国と関係しているかは、次回から述べていきます。
これまでの記事はこちらです。
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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、タケミカズチとフツヌシ、神功皇后と武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>




昼と夜、二つの顔を持つ男
小野篁は、平安時代初期に活躍した公卿であり、優れた文人でもありました。皆さんもご存知かもしれない、あの絶世の美女として名高い小野小町や、平安三跡と呼ばれる書道の名家・小野道風(おののみちかぜ)の祖父とも言われているそうですよ。彼自身も和歌を嗜み、「参議篁(さんぎたかむら)」として小倉百人一首にも名を連ねているんです。想像してみて下さい。昼間は朝廷で、厳しい身分制度の中で懸命に職務をこなす官吏として、国の法や政治に携わっていたのでしょうね。その聡明さは、きっと多くの人々から一目置かれていたはずです。
伝説の夜:冥府の裁判官
しかし、小野篁の物語は、ここで終わりません。平安時代末期から鎌倉時代にかけて語り継がれた説話集、『江談抄』や『今昔物語集』などによると、篁は夜になると、なんと冥府へ赴き、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというのです!「冥官(めいかん)小野篁」なんて呼ばれ方もするほど、この伝説は後世まで語り継がれています。皆さんはどう思われますか?現実世界で司法を司る役職に就いていた彼が、夜にはあの世の裁判官として、罪人を裁く手助けをしていたなんて…想像するだけで、ドキドキしませんか?歴史というのは、時としてこんなにもファンタジックな一面を持っているのですね。
この二重生活の伝説は、篁が単なる官吏や文人ではなかったことを示唆しているようです。彼の人生には、私たちがまだ知らない、もっと深い物語が隠されているのかもしれません。歴史の謎に興味がある皆さんだからこそ、この小野篁という人物の、人間的な側面と、伝説的な側面の両方に、さらに惹かれるのではないでしょうか。
<台与シリーズ>
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