靭(うつぼ):御霊神社
- tootake
- 5月13日
- 読了時間: 5分
第1046話 大阪と邪馬台国
前回:世田谷と瀬田:地名から読み解く邪馬台国で書いた御霊神社(ごりょうじんじゃ)の祭神は、大友皇子でした。御霊神社は大阪市中央区淡路町にもあります。ここの祭神は、津布良彦神、津布良媛神です。津布良(つぶら)とは、大阪湾岸の圓江(つぶらえ)で、現在の靱(うつぼ:大阪市西区靱本町)です。
靱は、かつての靱塩干魚市場のあるところでした。靱塩干魚市場は干物や肥料にする干鰯などの海産物を全国から集めていましたが、1931年の大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖され、1945年の大阪大空襲で一帯は焼け野原となってしまいました。
圓江(=靱)で行われた八十嶋祭(大嘗祭の翌年に行われる)の祭場とされた圓神祠(つぶらしんし)に、瀬織津比売神、津布良彦神、津布良媛神が祀られると、社はやがて圓神社、圓江神社、津村神社と呼ばれるようになり、摂津国津村郷の産土神社となります。この当時の御霊神社は大阪市西区靱本町にある楠永神社の近辺にあったといいます。
津村郷は、難波津の一部として古代より開けたところで、内蔵寮領等目録(宮内庁書陵部所蔵文書)に「河内国大江御厨、同御厨摂津国渡辺、同厨内津村郷」とあります。この目録は、内蔵寮の支配を受けて朝廷に供御の材料を貢進する御厨などを書上げて注進したもので、大江御厨(*東大阪市)は河内湖沿岸にあって、すでに平安中期以来海民が供御人に組織されて魚介類などを調進してきました。
*大江御厨(おおえのみくりや)は、東大阪市御厨(〒577-0032)にあり、川俣(かわまた:〒577-0063)・御厨辺を含み、河内の大和川一帯から河口の摂津に及ぶ地を広く領有し、宮中に供御の魚類や米を貢進した庄園のことです。河内平野の池・河・津で漁業を営む御厨供御人らは、その身分的特権によって漁場を独占していたといいます。
靱(うつぼ)の地名の由来は、豊臣秀吉が市中巡視中に魚商人の掛け声「やすい、やすい」を聞き、「やす」は矢を入れる道具である「靫(うつぼ)」にかけたという逸話に由来するとされますが、海部堀川の形状が靫に似ていたという説もあります。
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・大江御厨の大江は、大枝=太子(聖徳)=台与です。
~第542話:大枝神社:“たいし”は太子=台与 第583話:履中天皇(第17代)~大江
・川俣(かわまた)=河俣毘売(かままたびめ、かわばたびめ)は、台与です。~第488話:杭全神社~息長氏と河内 第496話:河俣毘売(かわまたびめ)~放出(はなてん)
纏めますと、靭はかつて靱塩干魚市場があった場所でした。その干魚は大江御厨から供給されたものであったとすれば、大江、川俣というキーワードから台与が浮かび上がってきます。
ところで靭(靭)と言えば、神武天皇と長髄彦(ナガスネヒコ)が戦ったとき、主君(ニギハヤヒ)が天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢(あめのはばや)と靫(かちゆき)を見せます。靱(うつぼ)は、このナガスネヒコが神武天皇に見せた靫(かちゆき)のことかもしれません。ナガスネヒコを祀る神社石切神社は大江御厨のある東大阪市にあります。
ナガスネヒコはいつも饒速日(ニギハヤヒ)に寄り添っています。ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=難升米もいつも台与に寄り添っています。ナガスネヒコがウツシコオで饒速日(ニギハヤヒ)は台与です。
<大阪と邪馬台国>
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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、タケミカズチとフツヌシ、神功皇后と武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>




靱(うつぼ)と御霊神社:古代の神話に触れる
「靱(うつぼ)」という言葉、なんだか響きが面白いですよね。ここはかつて「圓江(つぶらえ)」と呼ばれていた場所と関係があるそうなんです。そして、この地に鎮座するのが「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」。一口に御霊神社と言っても、祭神は神社によって異なるのですが、大阪市中央区淡路町にある御霊神社の祭神は、津布良彦神(つぶらひこかみ)と津布良媛神(つぶらひめかみ)とのこと。この「津布良(つぶら)」こそが、先ほどの「圓江(つぶらえ)」、つまり現在の「靱(うつぼ)」を指す言葉だとされているんです。まるで、土地の名前がそのまま神様のお名前に繋がっているみたいで、ロマンを感じませんか?
歴史の変遷と神々の息吹
靱の地は、かつて「靱塩干魚市場」があった場所としても知られています。全国から集められた干物や、肥料となる干鰯などが賑わいをみせていたそうですが、時代の流れとともに、1931年の大阪市中央卸売市場の開場、そして1945年の大阪大空襲を経て、この一帯は大きく姿を変えてしまいました。焼け野原となった土地に、また新たな歴史が刻まれていったのですね。
さらに興味深いのは、この「圓江(=靱)」で行われていたとされる「八十嶋祭(やそしままつり)」です。これは大嘗祭の翌年に行われる重要な祭祀だったとか。その祭場とされた「圓神祠(つぶらしんし)」には、瀬織津比売神(せおりつひめかみ)、津布良彦神、津布良媛神が祀られていたと伝えられています。やがて、その社は「圓神社」「圓江神社」「津村神社」などと呼ばれるようになり、この地域の産土神社(うぶすなじんじゃ)として人々に崇敬されていったそうです。現在、このあたりの御霊神社は、靱本町にある楠永神社の近辺にあったとも言われています。古代の津村郷は、難波津の一部として、昔から開けていた場所だったのですね。
地名に隠された、古代への扉を開こう
いかがでしたか?「靱」という何気ない地名から、古代の祭祀、神々の名前、そして人々の暮らしの跡まで、たくさんの歴史の断片が見えてくるようでした。私自身、こうして地名の背景を調べるたびに、まるでタイムスリップしたかのような感覚を覚えます。私たちが普段何気なく使っている地名には、実は想像もつかないような物語が隠されているのかもしれません。このブログ「地名から読み解く邪馬台国」では、これからもそんな古代への扉を開く鍵を、皆さんと一緒に探していきたいと思っています。
御霊信仰 - Wikipedia
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