第565話 #小野妹子 #遣隋使 #四天王 #聖徳太子
前回で書いたように、聖徳太子の四天王は、持国天=蘇我馬子、多聞天=秦河勝、広目天=迹見赤檮、増長天=小野妹子です。今回は小野妹子について考えてみます。
小野妹子は、推古天皇の時代に冠位大礼で大使に選ばれ大唐(隋)に派遣された遣隋使として有名です。隋書が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされていますが、通説にすぎません。
小野妹子は、近江国滋賀郡小野村(大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身。大日本史によれば天帯彦国押人命(=天足彦国押人命)の後裔にあたるとされています。古事記:孝昭天皇の段に「天押帯日子命は、春日臣、小野臣の祖なり」とあり日本書紀:孝昭天皇の段では、天足彦国押人命はこれ和珥*の臣等の始祖なりとあります。
*和珥(ワニ)~豊玉姫:ワニとカニ
前回で書いた、迹見赤檮の主君は聖徳太子または、押坂彦人大兄皇子とされています。
第494話:忍坂(押坂)は忍が丘(四条畷) では次のように書いています。
押坂彦人大兄皇子(おしさか・の・ひこ・ひとのおおえのみこ)は、敏達天皇の第一皇子で今の皇室は、この押坂彦人大兄皇子の男系子孫にあたるとされています。
この押坂彦人大兄皇子と似た名の天足彦国押人命(あめ・たらし・ひこ・くに・おしひとのみこと)は孝昭天皇の第1皇子で饒速日(ニギハヤヒ)の末裔とされています。
孝昭天皇は台与です。押坂彦人大兄皇子=天足彦国押人命=台与ということです。
日本書紀によると「大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、推古天皇15年に通訳の鞍作福利らと共に大唐(隋)に派遣され、当地において「蘇因高」と呼称されたと書かれています。
妹子は、推古天皇16年に隋の使臣裴世清を伴って帰国し、隋の皇帝煬帝からの返書を経由地の百済において紛失したと報告、その罪は流刑に相当するものでしたが、恩赦され罪に問われませんでした。裴世清の帰国に合わせて再び大使として隋に派遣され、学生の福因、恵明、玄理、大国、および学問僧の日文、請安、慧隠、広斉ら8名の留学生留学僧とともに国書を携え当地に赴き、翌年の推古17年に帰国した。続日本紀、新撰姓氏録などによれば、のち冠位は大徳にまで昇進したとされています。
隋書、大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言があります。隋書には倭王の名(姓は阿毎、字は多利思比孤)はあるが国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみです。
つまり、小野妹子という名前が隋には残っていないことにより、小野妹子という名前の人物は架空の人物である可能性があります。
ちなみにこのときの遣隋使は、第350話:遣隋使とウツシコオで書いたように大失敗をやらかしています。この遣隋使は倭国の風俗について説明した際に「此れ太だ義理なし」として煬帝から諭され、また服制の不備などもあり失敗に終わったようです。この時の遣使は隋書のみに記録されており日本書紀には残されていません。
ところで小野妹子と聖徳太子の関係については、四天王寺の建立のための用材を求め、小野妹子とともに現在京都の六角堂のある地を訪れたとあるくらいです。
第519話:六角堂と平安京では次のように書きました。
なぜここで小野妹子が登場するのかは不明ですが、一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子とされています。
敏達天皇は台与(豊)です。~敏達天皇は台与(豊)
聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが華道の由来とされ、その寺坊が池のほとりにあったことから「池坊」と呼ばれています。ただし、前述の縁起類には、聖徳太子が沐浴した池にちなんで寺坊を「池坊」と号したことと、小野妹子を寺主としたことは述べられています。
この遣隋使で日出處天子と称したために隋の皇帝煬帝が激怒したとされていますが、皇帝煬帝が激怒したというのは、遣隋使が倭国の風俗について説明した際に「此れ太だ義理なし」として煬帝から諭されたことで、また服制の不備などが原因です。つまりこの時の皇帝煬帝は日本側に、日本が国としてちゃんとしてないことを指摘したということなのです。
日本ではこの遣隋使の失敗(失態)隠し、記録として日出處天子の話と小野妹子を創作し、隋の皇帝煬帝からの返書を紛失したことにして体裁を繕ったのです。
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけ!??としています。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>

<台与シリーズ>
hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)
https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)
https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与
https://www.hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇
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衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊) 雄略天皇は台与(豊)!
孝昭天皇は台与:日原は目原 飯豊王女は台与(トヨ)なのか?
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(2)大原足尼命はトヨ 大宜都比売(おおげつひめ)は台与
倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ??
饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
小楯姫は台与:小楯は枚方 四道将軍:日子坐王は台与!
少彦名大神(スクナヒコ)は台与! 大彦は台与!??
ウマシマジは台与! 阿蘇都媛は台与
沼河比売は小楯姫=台与 タケミカヅチは台与!!
ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社
継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) 英彦山と台与
山部赤人は台与! 八幡神は台与!!
とよ(乎止与命・台与・臺與) 台与の物語