第586話 #押坂彦人大兄皇子 #継体天皇 #台与(豊) #稚野毛二派皇子
<押坂彦人大兄皇子の「正体」 : 新説古代史>より引用
押坂彦人大兄皇子(古事記では忍坂日子人太子)について疑問に思ったのは、まず古事記にその妻子まで明記されているにもかかわらず、生没年不詳と言う点です。
古事記を編纂するにあたって、執筆者には様々な制約が課せられていたことは、想像に難くありません。その存在及び記載内容が露見した時に備え、如何様にも解釈出来る細工をしている箇所もあれば、執筆者はその協力者を特定出来ない工作も不可欠です。
まず628年で停めることで、それ以降に言及する際に伴う危険を避けることが出来ます。
次に天皇に関する記述ですが、最も簡潔なのは「諱(本名)、宮(居住地)、在位期間、妻子(の有無)と外戚、御陵(墓所)」だけが記載されているもの、推古天皇もその例に漏れませんが、遡って崇峻天皇、用明天皇、敏達天皇、欽明天皇、宣化天皇、安閑天皇、すなわち古事記においては、第二十七代(安閑天皇)から第三十三代(推古天皇)まで、この記述手法が用いられています。
従って、628年以降712年(古事記撰上)までばかりでなく、531年(継体天皇逝去)から628年にかけても、絶対に揚げ足を取られる心配のない事柄しか記されていません。(但し、系図だけは贋造出来ます)
ではそれ以外の事績で最も新しいものと言えば、実は押坂彦人大兄皇子の事績で、登極しなかったので、宮も在位も御陵も記されていませんが、妻子と外戚は書かれています。
しかも押坂彦人大兄皇子は、聖徳太子と同年代か少し年上にもかかわらず、587年の所謂「物部戦争」に参戦していません。
加えて、不思議なことに、「物部戦争」に参加していないにもかかわらず、息子(舒明)と孫(孝徳天皇、皇極天皇)が、曾孫に至っては天智と天武天皇を輩出しています。
~引用ここまで
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<ここからは私の文章です>
上記の押坂彦人大兄皇子は、応神天皇の子の稚野毛二派皇子の子と思われます。
稚野毛二派皇子の子に忍坂之大中津比売命の名前があり、忍坂=押坂で彦を姫(比売)にかえると名前がかなり似てきます。彦から姫の変換は台与が女性であることを隠すためです。
記紀に登場する人物の名前はすべてなんらかの連想による創作です。
魏志倭人伝に書かれている、卑弥呼の後継者である台与(豊)が第代継体天皇であるというのは、荒唐無稽であると思われるでしょう。このブログでは今まに継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社 継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) などの記事を書いてきました。
魏志倭人伝では、卑弥呼の後継者は台与と書かれています。しかし古事記、日本書紀には台与は全く登場していません。と思われていました。しかしちゃんと台与のことが記載されていたのです。台与は女性ですが、記紀では台与は男性として記載されていたのです。
今回は系図から検証してみます。
稚野毛二派皇子は、応神天皇と、河派仲彦(かわまたなかつひこ)の娘で妃の弟姫(おとひめ)との間に生まれた皇子とされています。* 応神天皇も台与です。~応神天皇(第15代)は台与 *弟姫も台与です。~第501話:乙姫・弟姫・弟彦・乙彦
・綏靖天皇の后は、磯城県主の娘の川派媛、古事記で河俣毘売(かわまたびめ)としています。カワマタ(川俣)は大阪府東大阪市の地名です。〒577-0063 そしてもう一人の后が五十鈴姫です。稚野毛二派皇子の二派(ふたまた)は河派(かわまた)と同じ意味です。
川派媛(カワマタ)=河俣毘売=川俣姫=五十鈴姫=河派仲彦=台与です。
古事記では稚野毛二派皇子の7人の子が記載されています。7人とは以下です。
1・意富富杼王(おおほどのおおきみ:大郎子)=継体天皇
2・忍坂之大中津比売命=忍坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ) 忍坂は台与の拠点地の一つです。~第494話:忍坂(押坂)は忍が丘(四条畷) 大兄(おおえ)は大江=大枝=太子で台与のことです。~第583話:履中天皇(第17代)~大江
3・田井之中比売~第481話:継体天皇は台与3~田井(寝屋川市)
4・田宮之中比売~河内国交野郡田宮郷とは京阪電車枚方市駅前です。
〒 573-0024枚方市田宮。
5・藤原之琴節郎女~第422話:布遅波良己等布斯郎女(ふじわら・ことふし・のいらつめ)~継体天皇はトヨ(台与)
6・取売王(とりめのみこ)、7・沙禰王(おきながのさねのみこ)
取売王、沙禰王以外の人物はすでにこのブログで登場しており、いずれも台与(豊)です。
外通姫=田井之中比売=忍坂大中姫=允恭天皇=台与=継体天皇ということです。
外通姫は、日本書紀では忍坂大中姫の妹、古事記では、忍坂大中姫の子になっています。
中(なかつ)の付く人物も台与です。稚野毛二派皇子=河派仲彦(かわまたなかつひこ)=台与です。~衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊)、 仲哀天皇(第14代)とトヨ(豊)
関連項目:継体天皇はトヨ(台与)??!
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけ!??としています。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>

その最たるものが、推古天皇(第三十三代、在位592年~628年)までで筆を置いている点と、多くの天皇の事績が簡素である事実です。
小碓命(日本武尊、第十二代景行天皇息子)の様に、大活躍し御陵まで明記され、妻子と外戚まで記されたながら、天皇になれなかった人物もいますが、即位しなかった皇子で、妻子と外戚が判明している例は稀です。
更に父親が敏達天皇、母親が息長氏女、ですから近江国(淡海国)と縁が深くても不思議でありませんし、そもそも敏達天皇の祖父、継体天皇は近江国出身です。
聖徳太子(古事記では上宮厩戸豊聴耳命)も近江国と浅からぬ関係にあるのは、史家の指摘する通りです。
物部戦争の段階で大兄皇子が死没していれば尚更、生存していても戦陣に参じていないのは大失態です。
でもこれだけ重宝がられる、不思議だと思いませんか。
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