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神代三山陵と明治政府

tootake
4時間
読了時間: 6分

第1200話


鹿児島県内には、神武天皇に至る日向神話三代の神々の御陵が揃って治定されており、これらは総称して「神代三山陵」と呼ばれています。


可愛山陵(えのさんりょう:薩摩川内市)には、天津日高彦火瓊瓊瓊尊(ニニギノミコト)

高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ:霧島市)には、天津日高彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)

吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ:)には、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)

が祀られています。宮内庁が管轄する公式な陵墓です。

明治7年(1874年)に宮内省(現・宮内庁)によって、すべて鹿児島県内の3か所が正式に治定されました。


「日向国」の本拠地であるとする宮崎県側にも数多くの伝承地が存在しており、治定後も議論が続いたため、宮内庁は宮崎県内の有力地を「陵墓参考地」として指定・管理しています。

男狭穂塚陵墓参考地(宮崎県西都市・西都原古墳群):ニニギノミコト伝承地(日本最大の帆立貝形古墳)

北川陵墓参考地(宮崎県延岡市北川町):ニニギノミコト伝承地(可愛岳麓)

鵜戸陵墓参考地(宮崎県日南市宮浦・鵜戸神宮付近):ウガヤフキアエズノミコト伝承地


ところで、平安時代以前(古代)の朝廷や歴代天皇が、神代三山陵に対して奉幣(幣帛をお納めする儀式)や勅使派遣などの公式な崇敬儀式を行ったとする記録は、六国史をはじめとする古代の公式史料に一切存在しません。


畿内・近国の歴代天皇陵では、「陵戸(みささぎもり)」と呼ばれる墓守の民家が配置され、毎年あるいは定期的に朝廷から幣帛(お供え物)が下賜され、国家的な祭祀や管理が行われていました。それに対し、神代三山陵は、陵名こそ列挙されているものの、注記にはいずれも「在日向国。無陵戸(日向国に有り、陵戸無し)」と記載されてるだけです。


墓守(陵戸)が置かれず、祭祀の規模や予算、奉幣の規定も定められていなかったことは、朝廷が定期的な儀式や物理的な管理を行っていなかったことを直接示しています。


六国史等の公式記録における「勅使・奉幣」の不在

古代の朝廷は、国家的な危機や節目(即位、疫病、異変など)に際し、伊勢神宮や畿内の主要神社、そして皇祖の陵墓へ勅使を派遣して奉幣を行っていました。


九州にある国家防衛や神威の面で重視された宇佐八幡宮や香椎宮、あるいは太宰府周辺へはたびたび勅使が遣わされていました。一方で、神代三山陵へ勅使を派したという記述は『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』のいずれにも一度も登場しません。


朝廷にとって日向神話(天孫降臨から神武東征に至る物語)は、天孫の正統性を主張するための「王権のルーツ(物語)」として極めて重要でしたが、その舞台となった南九州の陵墓群は、実体的な祭祀対象というよりは『記紀』の系譜上に存在する概念的な陵墓として扱われていました。


地方の土着伝承や神社伝承*としては存在していた可能性があるものの、朝廷側においては具体的なピンポイントの場所までは掌握・特定していなかったと考えられています。


明治時代に入り、国家神道の再編と皇室の権威強化に際して「日向神話の現地の特定」が命じられ、薩摩藩時代の考証などを基礎として現在の神代三山陵が公式に治定(指定)されました。したがって、国家がこれらの陵墓を日常的に敬い、儀式を挙行するようになったのは明治以降の近代になってからのことです。


実は、江戸時代後期、薩摩藩主の命を受けた白尾国柱が『神代三陵考』(1792年)を著すなど、薩摩藩内では「日向神話の舞台や三陵は薩摩・大隅国に存在する」とする考証論争が活発に行われていました。

明治維新後、国家神道の整備に際して宮内省が調査を実施。薩摩藩時代の考証結果や当地の伝承を強く反映する形で、明治7年7月10日に鹿児島県内の3か所が一括して「神代三山陵」に治定されました。


つまり、明治維新で天下を取った薩摩藩が、鹿児島県の権威を高めるために、明治政府に「神代三山陵」を作らせたのです。

こうした創作の背景には、鹿児島県霧島を天孫降臨の地に比定したい、明治政府(薩摩藩)の『記紀』解釈があった為です。『記紀』は、南九州は「まつろわぬ民」の熊襲の国であるとして、幾度も熊襲征伐を重ねた事を記しています。薩摩藩としてはこの『記紀』の記述が気に入らなかったのです。


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*地方の土着伝承や神社伝承とは、第1057話:開聞岳と枚聞神社で、書いたようにウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=難升米・台与の親子が、薩摩半島の南端(鹿児島)にも来ていたからでしょう。

開聞岳(かいもんだけ)は、薩摩半島の南端にあり、古来より鹿児島に入港する船の目印となっていたため、錦江湾の「海門(かいもん)」であったといいます。

しかし、開聞の本来の語源は「ひらきき」とされます。

神話によると、瓊瓊杵尊*(ににぎのみこと)がこの地を訪れた際に「われ今にひらに来たりき(今まっすぐにここへ来た)」と言ったことが由来とされ、その言葉から「ひらきき」という地名が生まれました。時代とともに「ひらきき」は「かいもん」と呼ばれるようにな

ったのです。


・熊襲についても、第959話:熊襲のボスは、、、:熊襲惣領では、次のように書きました。熊襲も隼人と同様に、古事記・日本書紀が作り上げた架空の概念なのです。

熊襲も疑似民族集団です。~第304話:隼人族は呉の勝 第305話:隼人族は疑似民族集団 第306話:阿多隼人(薩摩隼人) 第307話:大隅隼人は京都府京田辺市

第457話:川上梟帥はスサノオでは、熊襲建(クマソタケル)こと川上梟帥は、スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)と書いています。

・神代三山陵に祀られている、ニニギノミコト、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズは台与です。~第436話:瓊瓊杵尊:ニニギは台与 第256話:ウガヤフキアエズのミコト

第299話:海幸彦と山幸彦では、「 一般的な日本神話(記紀)では、ヒコホホデミ(山幸彦)は神武天皇の祖父にあたるとされていますが、このブログでは、「山幸彦=ヒコホホデミ=神武天皇(の諱)=台与」として直結させて考証しています。」と書いています。



これまでの記事はこちらです。


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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、タケミカズチとフツヌシ、神功皇后と武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




 
 
 

2件のコメント

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
4時間前
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