神功皇后と瀬戸内海
第1184話
第1181話:濱宮と加太・友が島~和歌山市では、神功皇后が三韓出兵からお帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会いました。
沈みそうになる船の中で神に祈りを捧げると、お告げがありました。
「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」
その通りに船を進めると、ひとつの島にたどり着く事が出来ました。
と書いています。同じような伝説を持つ神社が、瀬戸内海周辺には多数あります。
AIに、いくつくらいこのような神社があるのか尋ねてみました。
瀬戸内海周辺で神功皇后(じんぐうこうごう)を祀る神社の正確な数を特定することは非常に困難であり、実質的には数えきれないほど多数(数百から数千社規模)存在します。
「数百から数千社規模」とお伝えした根拠は、主に以下の2つの歴史的・統計的な事実に裏付けられています。
1. 「八幡宮(八幡神社)」の数と祭神の構成
神功皇后を祀る神社の数を語る上で最も大きな理由が、「八幡信仰」の広まりです。
八幡三神として祀られる: 全国の八幡宮では、主祭神である応神天皇(八幡神)とともに、母である神功皇后が「八幡三神」の一柱としてセットで祀られるのが最も一般的です。
圧倒的な神社の数: 八幡宮・八幡神社は日本で最も数が多い神社のひとつであり、全国に約4万社(末社や小祠を含めた推定)あるとされています。法人登録されている「八幡神社」という名称だけでも全国に約4,800〜7,800社存在します。
瀬戸内沿岸の密集度: 瀬戸内海に面する府県(兵庫、岡山、広島、山口、香川、愛媛、福岡、大分など)は古くから海上交通の要衝であったため、航海安全や武運を祈って八幡宮が各地に建立されました。1県あたり数百社の八幡神社が分布しているため、瀬戸内沿岸一帯を合算するだけで、必然的に「数千社」の規模に達します。
2. 住吉神社や「三韓征伐」ゆかりの固有の神社の存在
八幡宮以外にも、神功皇后を祀る神社は多数あります。
住吉信仰との結びつき: 航海安全の神である「住吉三神」を祀る住吉神社(全国に約2,000社)でも、神功皇后が共に祀られていることが非常に多いです。これも港の多い瀬戸内海沿岸に多数存在します。「神功皇后が立ち寄った」「井戸を掘った」「船を繋いだ」といった固有の伝承に基づき、皇后自身を主祭神として建立された単独の神社や、神社の境内にある小さな社(摂末社)が瀬戸内海沿岸には無数に点在しています。
瀬戸内海沿岸の「八幡宮」「住吉神社」、そして「固有の伝承を持つ神社」をすべて合算すると、実数として確実に「数百から数千社」の規模になります。
以上がAIの回答です。
神功皇后は、夫である仲哀天皇の没後、朝鮮半島へ出兵したとされる「三韓征伐」の伝説で知られています。その往復の航路として瀬戸内海を通ったとされており、航海中の嵐を避けた場所、水を探し当てた場所、船をつないだ岩など、沿岸各地に皇后が立ち寄ったという伝承が数多く残されています。そうしたゆかりの地に、後世になって神社が建立されました。
神功皇后=台与ですので、これらの神功皇后に関する伝説は、台与が何度も瀬戸内海を船で往復したことを意味していると思われます。例えば、大坂の苅田*から九州の苅田、行く場合途中で何か所の港に潮待ち、風待ちなどで立ち寄っている筈です。
*大阪の苅田は住吉区にあります。住吉は、神功皇后(台与)と武内宿祢(ウツシコオ)と関係の深い場所で、邪馬台国当時には瀬戸内海から中国、朝鮮に船出する出発点である大きな港です。~第956話:苅田は、フェリー乗り場
そうした台与が立ち寄った場所が神功皇后の伝説になったのだと思います。
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海峡七神社(山口県・福岡県): 関門海峡周辺には、亀山八幡宮や忌宮神社など、神功皇后の三韓征伐にまつわる由緒を持つ7つの代表的な神社があります。
広島県三原市の糸𥔎神社では、皇后が船を寄せて水を得たという伝承(御調の井戸)が残っています。
浮鯛神社(広島県三原市): 神功皇后が航海の途中で海に流したお供え物(幣)が打ち上げられた場所に建てられたと伝わります。
両児神社(岡山県倉敷市): 皇后が立ち寄った際、応神天皇が2歳になったことから「二ツ子(二子)」という地名になり、神社が建立されたとされています。
高砂神社~ 神功皇后が外征のとき、大己貴命の神助を得て敵を平らげられた。帰国の途中、この地に船を寄せられ、国家鎮護のため、大己貴命をまつられたのが高砂神社のはじまりです。
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<蛇足の追記>
第468話:石の宝殿と高砂では、石の宝殿について書きました。
高砂市に、日本三奇の一つ、石の宝殿があります。生石神社(おうしこじんじゃ)には、水に浮かぶ巨岩が祀られています。見た人は度肝を抜かれるくらい大きなものです。
幅6.5m、高さ5.7m、奥行5.46mの巨大な石の造形物で生石神社のご神体です。
この高砂市の「石の宝殿」については、なんと蘇我馬子の最大の政治的ライバルであった物部守屋(もののべのもりや)が作ったという伝説が残されています。
播磨国風土記には、石の宝殿(当時の呼び名は大石)について次のような記述があります。
「伝えて言うのには、聖徳太子の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)が造った石である」この「弓削の大連」が物部守屋を指しています。物部守屋の別名は弓削守屋です。
このブログでは、物部守屋=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=難升米です。~第465話:ミシャグジ様は物部守屋=ウツシコオ
そしてウツシコオは武内宿祢です。~第502話:武内宿禰はウツシコオ(2)
神功皇后と武内宿祢は台与・ウツシコオの親子です。~第1139話:神功皇后と武内宿祢:AIとの対話(6)
これまでの記事はこちらです。
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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、タケミカズチとフツヌシ、神功皇后と武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>


<台与シリーズ>
hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)
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https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与
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継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) 英彦山と台与