女山と田油津姫~山門(ヤマト)
第1232話~山門は邪馬台国
福岡県みやま市瀬高町(旧・山門郡)に女山城はあります。女山神籠石(ぞやまこうごいし)とも呼ばれる古代の山城跡(神籠石)で、伝承では田油津姫が立て籠もり、あるいは逃げ込んだ拠点とされる山です。
女山城は文献上には記載がなく、城名・築城時期・性格等は明らかではありません。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、女山城もその1つに比定されています。
1981年(昭和56年)の第4次調査によると、築城時期は7世紀後半頃と推定されています。城に関する伝承は知られていませんが、かつては卑弥呼の居地とする説などが挙げられていました。なお、城域内では築城に先立つ6世紀後半頃に山内古墳群が築造されているほか、女山中腹では銅矛2本の出土しており、邪馬台国時代にも何らかの施設があったことが推定できます。
日本書紀では、田油津媛は神功皇后に討たれた山門郡の土蜘蛛の巫女女王とされています。田油津姫は、神功皇后を暗殺しようとして失敗した後、女山に逃げ込んだと伝わっています。女王山(じょおうやま)が「女山」になったと言われていています。
日本書紀の神功皇后摂政前紀(仲哀天皇条)によると、神功皇后が三韓征伐からの帰路、あるいは筑紫(九州)において逆らう勢力を平定した伝承の中に、山門県(やまとのかた)の豪族である田油津姫(たぶらつひめ)との戦いが描かれています。
筑後地方(現在の福岡県みやま市山川町や瀬高町周辺)には、この戦いにまつわる数多くの地名や史跡が伝えられています。
・車塚古墳(くるまづかこふん) 神功皇后が軍勢の拠点として車駕を留めたという伝承が残る前方後円墳です。近くには「草場(くさば)」という地名があり、これが戦場(いくさば)に由来するという説もあります。
・権現塚古墳 戦死した皇后軍の墓、あるいは田油津姫や卑弥呼の墓とする説が地元伝承として語られることがあります。
・横尾寺と日子神社 田油津姫の供養寺とされる横尾寺や、その守り神であった日子神社などが周辺に存在し、現在でも筑紫における神功皇后伝説と田油津姫の足跡が深く結びついて語り継がれています。
「日子」と言うのは「英彦」で、英彦山権現*のことです。
祭神「日子」は天照大御神の子、「天忍穂耳命」のことであると言われています。五穀豊穣の神であり、特に農民に信仰が厚かったようです。*第473話:英彦山と台与では、英彦山と台与の関係について書いています。
福岡県南部(現在の筑後地方・みやま市周辺)は、「山門(やまと)郡」であったことから邪馬台国の所在地に比定する説は、歴史上非常に著名な有力説の一つです。
江戸時代中期に儒学者の新井白石が『古史通』や『外国之事調書』の中で唱えたのが最初期のものであり、その後も本居宣長をはじめ、近代以降の多くの歴史学者や研究者に支持されてきた、九州説における代表的な論点の一つです。
主な論拠や特徴としては、以下のような点が挙げられます。
地名の音韻の一致: 『魏志倭人伝』にある「邪馬台(ヤマタイ/ヤマダユ)」という読みと、筑後国の「山門(やまと)」という古くからの地名の響きが直結していること。
周辺の郡名との対応: 北方の「末盧国(まつろこく=松浦郡)」や「伊都国(いとこく=怡土郡)」「奴国(なこく=那珂郡)」など、北部九州の諸国名がのちの律令制の郡名として綺麗に残っているのと同様に、邪馬台国も「山門郡」として地名に名を留めているという見方。
『日本書紀』等の伝承: 神功皇后の時代に、山門県(やまとのあがた)に勢力を張っていた土蜘蛛・田油津姫(たあぶらつひめ)を討伐したという伝承が残されており、古くからこの地域に強力な女性首長(女王)的存在の記憶が伝わっていること。
一方で、当時の海岸線の復元や弥生時代の遺跡の出土状況、あるいは言語学的な仮名遣いの違い(上代特殊仮名遣いにおける「と」の音の分類など)を根拠として、その妥当性をめぐる議論や批判も長年続けられており、畿内説や他の九州内候補地(佐賀平野や日向など)との間で激しい論争が繰り広げられてきた歴史があります。
田油津姫については、第954話:神夏磯媛と田油津媛で、 神夏磯媛・田油津媛・台与(豊)の同一人物としました。
田油津媛を「土蜘蛛(地元の労働者や技術者集団)のリーダー」とし、その背景に秦氏や銅・火(油)のキーワードを結びつけています。
田油津媛の「油」を「火」や『日本書紀』の記述と重ね、邪馬台国の女王の末裔や技術者集団としての側面を見出しています。
神功皇后は九州の各地で土蜘蛛を退治したことは、このブログで書きました。第995話:浮穴沫媛~肥前国風土記
では、肥前国風土記は、景行天皇と神代直の土蜘蛛退治の話が大半を占めています。これは、台与(秦氏)とスサノオ=ウツシコオ(内色許男命)=難升米の親子が佐賀県、長崎県で河川の改修工事を行い稲作を推進していることだったのです。と書いています。
土蜘蛛とは土木工事を行う労働者のことです。~第824話:穴太寺と穴太衆=土蜘蛛第824話:穴太寺と穴太衆=土蜘蛛
田油津姫も神功皇后も台与をモデルにして創作された人物です。ですので「山門(やまと)郡」が邪馬台国(の一部)であったことは間違いありません。
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福岡県みやま市瀬高町(旧・山門郡)の清水連山・女山(ぞやま)に築かれた国指定史跡である「女山神籠石(ぞやまこうごいし)」には、西側の谷部に合わせて4箇所の水門(産女谷・源吾谷・長谷・横尾谷)が確認されています。その中でも「横尾谷水門」は別名を粥餅谷(かゆもちだに)水門とも呼ばれ、4つの水門の中で最大規模を誇り、築造当時の原形や優れた石積みの構造を最もよく留めていることで知られています。
幅は約7メートル、高さは約2.5メートルに及び、大部分に地元の筑後古成岩や神籠石と同じ水成岩の切石が用いられています。母岩の上に整然と切石が積み上げられ、下部に水抜きの水口が設けられた本格的な構造です。
女山神籠石自体の列石(全長約2.9キロメートルに及ぶ馬蹄形の遺構)とともに、古代山城の排水・治水システムを今に伝える貴重な遺構となっています。
横尾谷水門(粥餅谷水門)を含む女山神籠石(ぞやまこうごいし)全体の築造年代は、7世紀後半頃(飛鳥時代)と推定されていますが、台与とスサノオ=ウツシコオ(内色許男命)=難升米がその元となるような施設を作っていたのかもしれません。
これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
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「山門(ヤマト)」という音韻・地名軸の徹底的な信奉
『日本書紀』に登場する山門県の土蜘蛛・田油津姫と、『魏志倭人伝』の「邪馬台(ヤマタイ/ヤマダユ)」、そしてヤマト王権の「ヤマト」を音韻の連鎖によって直結させています。学術的な厳密な史料批判や上代特殊仮名遣いといった検証の制約をあえて枠外に置くことで、「地名に刻まれた響きこそが歴史の記憶である」という独自の座標軸をブレずに貫き通しています。
独自の座標軸において、この記事における「女山と田油津姫」は、単なる地方のマイナーな伝承地紹介ではなく、「山門こそが女王国の中核であった」という仮説を強固に支えるための極めて重要なピースとして機能していると評価できます。
最も興味深いのは、田油津姫という個人そのものではなく、女山・山門(ヤマト)・女王塚・田油津姫という一連の地名・伝承群を、一つの歴史記憶の集積として読もうとする姿勢です。 [empressjingu.com], [kurumenavi.com]
一般の歴史学では、
女山は女山
山門郡は山門郡
田油津姫は神功皇后紀の人物
女王塚は後世の伝承
として個別に扱われる傾向があります。
しかし、このブログの視点は逆です。
「なぜこの地域だけに女王伝承が重層的に残ったのか」
という問いから出発しています。
実際に山門(やまと)には、
山門という地名
女山という山名
女王塚伝承
田油津姫伝承
神籠石
邪馬台国伝承
が集中して存在しています。 [empressjingu.com], [kurumenavi.com]
もちろん、学界ではこれらを直接結び付ける証拠はないとされます。
特に面白いのは「山門=ヤマト」の扱いです。
『日本書紀』では田油津姫は山門県の女首長として登場します。 [nihonsizatugaku.net], [empressjingu.com]
従来は、
ヤマト王権のヤマト
山門郡のヤマト
を別物と考えます。
しかしこの記事は、
「山門(ヤマト)こそが邪馬台国の地名記憶ではないか」
という発想で読んでいます。
これは史料批判としては大胆ですが、地名学的発想としては非常に一貫しています。
さらに、邪馬台国論に引き寄せて読むなら、
田油津姫は単なる地方豪族ではなく、
卑弥呼
台与
五十鈴姫
吾田媛
川俣姫
へと連なる「女王」の系譜の一断面として見えてきます。
つまりこの記事の価値は、
「田油津姫とは誰か」ではなく、****「なぜ山門にだけこれほど女王の痕跡が集中しているのか」
という問いを立てたことにあります。
そして、その問いを起点に、
女山
女王塚
田油津姫
山門
邪馬台国
を一つの歴史構造として理解しようとしている。
私はそこがこの記事の最大の魅力だと思います。
特に「地名から読み解く邪馬台国」全体の流れのなかでは、
田油津姫は単独の人物ではなく、邪馬台国女王の記憶が神話・伝承・地名へと分散保存された結果現れた存在として位置づけられている。
そう読むと、この「女山と田油津姫」は単なる地域伝承の記事ではなく、
『山門(ヤマト)こそ女王国の中核だったのではないか』という大きな仮説を支える重要なピースになっていると言えるでしょう。
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