生田神社とカマボコ
更新日:9月18日
第1185話 神功皇后の伝説2
生田神社(いくたじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区にあります。
地元では「生田さん」として親しまれています。
社伝(日本書紀などに由来する伝承)によると、神功皇后が三韓外征の帰途に神戸港で船が進まなくなった際、神託によって現れた祭神の稚日女尊(わかひるめのみこと)が「私は活田長峡国に居りたい」と告げたため、そこに神社を創建したと伝えられています。
前回:神功皇后と瀬戸内海では、「台与が立ち寄った場所が神功皇后の伝説になったのだと思います。」と書きました。稚日女尊は台与ということです。
稚日女尊の「稚日」=「若」とは、台与のことです。
・ワカフツヌシの「ワカ」は「若」で、「若い方の布都(ふつ)主」ということは台与といういうことです。~第1043話:ワカフツヌシ:出雲と台与(11)
生田神社では、 稚日女尊は「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも和魂*とも妹神であるともいわれています。
日本書紀によると、神功皇后元年に神功皇后が三韓征伐を終わらせて帰還とき、船が現在の神戸港で進まなくなったために神占を行った。すると、稚日女尊が現れて「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅(うながみのいさち)に命じて生田の地に祭らしめ神託があった。そこで皇后は海上五十狭茅を神主として、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山:いさごやま)に稚日女尊を祀らせた。これが当社の始まりであるという。 とあります。
海上五十狭茅も台与です。
このブログでは、記紀(古事記・日本書紀)に登場する「五十(いそ/いと/いけた)」のつく人物や神々は、台与です。~第1153話:五十はイソ(磯):五十瓊敷皇子・五十鈴姫
「神戸」という地名は、この生田神社の社領が現在の神戸市中央区の一帯があったためです。大同元年(806年)に朝廷より当社のために「生田の神封四十四戸」=神戸(かんべ)44戸を頂いたとあり、以来現在の神戸市中央区の一帯は当社の社領となりました。この神戸(かんべ)が紺戸(こんべ)となり、この地が神戸(こうべ)と呼ばれるようになったということです。神戸(かんべ)とは、神社をお供えする家、世話をする家、守る家という意味です。
生田神社境内の「生田の杜」に比較的新しい碑が建っています。そこには「かまぼこ発祥の地」と刻まれています。設置は平成27年(2015) 11月15日。古文書に出てくる永久3年を西暦に換算した1115年に因んで11月15日を「かまぼこの日」としているそうです。
かまぼこの歴史はかなり古く、その料理法は神話時代まで遡るそうです。
ここの生田神社が発祥とされているのは、神功皇后が生田神社で魚肉のすり身を鉾の先に塗りつけ、焼いて食べたことの伝承があるからです。
「類聚雑要抄」などの古文書には、「かまぼこは蒲のほこに、にせたる物なり」とあり、河原に育つ蒲の穂に似ているので「かまぼこ」と言う名がおこったのだと記されています。
現在の兵庫県神戸市中央区の古代の地名は、活田長峡国(いくたのながおのくに)で
この「活田(いくた)」が、のちの「生田」となります。
平安時代末期の寿永3年(1184年)2月に戦われた一ノ谷の戦いでは、平知盛が生田の森に本陣を敷いています。
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*和魂=荒魂
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂です。勇猛果断、義侠強忍等といった意味を持ち、崇神天皇の御代には大物主神の荒魂が災いを引き起こし、疫病によって多数の死者を出しています。
これに対し、和魂は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされています。
荒魂と和魂は、同一の神なのですが、別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮、豊受大神宮の多賀宮といったように、別に祀られていたりすることもあります。
関連項目:神功皇后と瀬戸内海
これまでの記事はこちらです。
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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、タケミカズチとフツヌシ、神功皇后と武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E6%9C%89%E9%A0%BC 立山
富山県の東部。常願寺川の北岸を占める。1954年(昭和29年)に、雄山町と利田村、上段村、東谷町、釜ケ渕村、立山村が合併して、立山町が成立。その後、新川村を編入。中心地の五百石は市場町。1819年(文政2年)に、大庄屋の朽木平左衛門により開墾された松本開(まつもとひらき)に始まる。【出典】
■ 立山(たてやま): 富山県中新川郡立山町芦峅寺
# 「たちやま」ともいった。県東南部,北アルプス中の雄峰。中新川(なかにいかわ)郡立山町に属する。立山本峰は雄山(おやま)・大汝(おおなんじ)山・富士の折立(ふじのおりたて)の3峰からなり、最高点は大汝山の3,015mであるが、雄山神社の峰本社のある雄山(2,992m)へ登るのを立山登山という。またこれに浄土(じようど)山・別山(べつさん)を加えて立山三山ともいう。広くは弥陀ケ原(みだがはら)から立山連峰全体,後立山(うしろたてやま)山をも含めて北アルプスの総称でもある。山名の由来には諸説ある。古くは「タチヤマ」と呼ばれ、「万葉集」に詠まれたような岩峰と雪渓の壮観から大刀山の字をあてる説もあるが定かでない。そびえ立つ山・神の顕(たつ)山の意であろうか。「タテヤマ」の表記は寛政6年の堯恵の「善光寺紀行」が初出とされ、中世以降は「タテヤマ」と呼んだらい。しかし前田利長の文書その他に「リウサン」と音読された例もあり,また詩語・雅語として「タチヤマ」を用いることもある。いずれにせよ「すめ神のうしはきいます山」として古くから山麓の人々に尊崇・遥拝されていたものであろう
高尾山薬王院 - Wikipedia
<台与シリーズ>
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饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
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少彦名大神(スクナヒコ)は台与! 大彦は台与!??
ウマシマジは台与! 阿蘇都媛は台与
沼河比売は小楯姫=台与 タケミカヅチは台与!!
ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社
継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) 英彦山と台与