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百々石城~南方(喜連瓜破)

更新日:10月25日

第480話 #南方 #継体天皇 #邪馬台国 #台与 #百々石城


古事記には南方(みなみかた)という地名が登場するのですが、南方(なんぽう)と読んでしまい方角のことだと勘違いされてしまったいるようなのです。最近は関東の方でも、西中島南方(にし・なかじま・みなみ・かた)を知っておられるらしく、孤独のグルメでこの地名が登場しています。西中島南方は新大阪駅の近くです。


古事記の神武記にも、「南方」より廻幸するの時、血沼の海(大阪湾)に居たり、、との記述があります。日本書紀の作者たちはこの南方を”なんぽう”と解したのか、地名であることを知らなかったようで日本書紀にはこの地名は出てきません。


このブログでは、南方(地名:みなみかた)については、その場所の重要性からタケミナカタの拠点地であるとしてきました。南方刀美神(タケミナカタ)~三島の溝杭3代目


南方は下記の図でも分かるように海峡にあたる地にあり大阪湾から河内湖(淀川)に入る要衝です。瀬戸内海、熊野灘から河内湖(淀川)入るにはここを通らなければなりません。


この南方には何らかの建物があったはずです。枚方(ひらかた)、宗像(むなかた)、行方(なめかた)など、「方:カタ」の付く地名は物資の集積場(ターミナル)だと以前書いたことがあります。行方は鹿島神宮と香取神宮の近くでやはりウツシコオと台与に関係のある地です。第441話:タケミカヅチは台与!! 宗像はについては第337話:阿多賀田須命~宗像氏 で書いています。


前回書きました北村某の家記には下記のような記述がありました。


神功皇后の治世、大々杼(おおど=継体天皇)の黒城の代に至り、仲哀天皇は筑紫の熊襲を征伐するために穴門国豊浦に御幸した。また、息長田別王*は南方に宮を建て、「百々石城」と名付けて移り住んだ。*息長田別王は台与です。(神功皇后も仲哀天皇も台与です。後述予定)→継体天皇は台与3~田井(寝屋川市)

王は狭山池の水を引いて初めて田を作り、息長河を掘って淀川に注がせ、百々石城の前後に門を作り、南を「大手門」、北を「後つ門」と呼んだ。この「百々石城」が南方にあった施設だと思われるます。


百々とは多くのという意味ですから、多くの石垣でできた本格的な城だったようです。


ところで狭山池は大阪府狭山市ですが、大阪府でも南の方に位置しており、南方とは100K位離れており、狭山池から淀川に水を注がせるのは不可能です。


この点については、北村某の家記の信憑性を疑う議論ともなっています。

「大阪府全志」自身が本の中で「其の記事の真なるかは無論疑なき能わざれども」と疑義を示しています。奥野健治氏は著書「万葉摂河泉志考」の中で、息長田別王が「息長河の水を淀川に注がしめ」た記事に着目し、息長川の水を淀川に引くのは上代の地形から見て理に適っていないこと。当時、難波丘陵の東部は入江や沼沢地であり、喜連町北方の横野に防潮堤を築いて猪飼津からの逆流を防がなければならないほどであった。このような諸河川の合流点になっている場所をわざわざ横断して遠くの淀川に水を引くのは何の意義もなく、技術的には「湖中に更に河川を作る」ようなものであるとしています。


邪馬台国時代の狭山池は淀川に近くにあったはずです。あるいは南方は私が思っている大阪市淀川区の西中島南方ではなく、喜連(平野区喜連町)だったのかもしれません。

そして息長河は、住吉津~瀬戸内海~北九州~津島~朝鮮半島を往来した当時大型の準構造船が入り込んでいたようで、瓜破北遺跡からは船の部材が出土しています。


地図で確認すると喜連からまっすぐに西に向かうと住吉大社があり住之江から大阪湾に出られます。どうやらこちらが本当の南方のようです。


北村某の家記に「神功皇后摂政11年、皇后と皇太子品陀和気命はこの地に御幸し、百々石城から楯之御前社・鉾之御前社に参拝した。そこでこの道を「御幸路」といい、、」とあり住之江には御幸路とされる道(住之江区御崎)があります。


*住吉大社の祭神は武内宿祢です。第324話:武内宿禰はウツシコオ!! 


瓜破は喜連に隣接した地です。今では喜連瓜破(きれうりわり)は、クイズでもよく出題される大阪府の難読地名となっています。




※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Oct 24
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次は、開化天皇皇子の日子坐王の子である迦邇米雷王を父とする息長宿禰王で、神功皇后の父とされています。第三は、息長宿禰王の娘で第14代仲哀天皇の皇后・神功皇后(じんぐうこうごう)で、諱(実名)は息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、第四は、神功皇后の弟の息長日子王、第五は、倭建命の子である息長田別王、第六は、倭建命の子・杙俣長日子王の娘である息長真若中比売。その他、香春神社の祭神である辛国息長大姫刀自命や、続日本紀に見える額田部連息長、吉備津彦後裔の吉備上道臣息長借鎌、播磨国風土記に見える天穂日命の後裔で山直の祖・息長命、新撰姓氏録で茨田連の祖と見える景行天皇皇子の息長彦人大兄瑞城命などです。*いちいち解説しませんが(アンダーラインをクリックすると詳細が見られます)、上記の人物は、すべて台与とウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。


息長田別王は、応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王(継体天皇)が中興の祖とされています。岡田精司氏は「継体天皇=息長出自説」が有力な継体王朝論とされておられます。つまり、


倭建命(ヤマトタケルは台与)の妻んだ子が息長田別王、その子が𣏾俣長日子王、その子が飯野真黒比売命、息長真若中比売、弟比売であるという。二俣王の母は古事記では中比売、上宮記*では弟比売となっており、二俣王の妻はそれぞれ弟比売、中比売と逆になっていますが、いずれにせよ、二俣王もその子女も息長氏と関係が深いことがわかります。


息長の名を冠する王族は三系統あるされています。1) 日子坐王、2) 倭建命(ヤマトタケル)、3) 應神大王でこれらの人物は台与です。詳細は後日

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秀丸 遠嶽
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秀丸 遠嶽
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