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四隅突出型墳丘墓~原イズモ国

第164話


西谷墳墓群は出雲市街南東部の標高40m程度の丘陵にあります。弥生時代後期から古墳時代横穴墓群、奈良時代の火葬墓などが群がっています。現在までの32基の墳墓と横穴墓群が確認されています。このうち、1~4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓です。四隅突出型墳丘墓は出雲地域を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、出雲地域ではこの西谷墳墓群や安来市荒島墳墓群に多く見られます。


西谷墳墓群と同じ頃、四隅突出型の墳丘墓は山陰地方の各地で築かれました。大型のものは、安来平野(仲仙寺墳丘墓:国史跡)、米子平野(仙谷墳墓群:国史跡・埋戻し)、倉吉平野(阿弥大寺墳丘墓:国史跡・埋戻し)、鳥取平野(西桂見墳丘墓:消滅)でも築かれています。一方、山陰と北陸の中間地である北近畿では、四隅突出型墳丘墓は1基も見つかっていません。ただ播磨(針間)にも四隅突出型墳丘墓の可能性がある墳墓が発見されています(周遍寺山1号墓、船木南山古墳)。


これらのことから、四隅突出型墳丘墓は大和朝廷(邪馬台国)とは別の勢力が築いた墳墓と考えられます。水野祐氏は出雲の語意は厳藻(イツモ)で川藻を神聖視したものであったとされています。門脇 禎二氏は原イツモ国とされています。


西谷墳墓群では4号墓が築かれたのち、谷を挟んで向かい側の丘(現・三谷神社境内)に9号墓が築かれたのを最後に王墓の築造が途絶えます。同様に山陰の別のクニでも四隅突出型墳丘墓の築造が止まりました。近畿地方に新しい形状の墳墓(前方後円墳)が築かれようとする、ちょうどその頃のことです。


私は、ウマシマジが全国の銅剣・銅鐸を集めて荒神谷遺跡に埋めたと思っています。

神原神社(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社で、旧社地にあった古墳から「景初三年」の銘を有する三角縁神獣鏡が出土しています。ここがウマシマジの墓ではないでしょうか。


門脇 禎二氏によると出雲は意宇(オウ)国(=イツモ)、斐伊国(ヒイ)、佐太国(さた)などに分かれていたそうです。ウマシマジ(出雲)がこの地に来るまでは出雲とは呼ばれいなかった可能性があります。意宇(オウ)氏から出雲臣とされたのは大宝2年(702年)です。


「出雲や」ウマシマジはつぶやいた。「わしは出雲になったんや。」ウマシマジはすべてを理解した。孝元天皇(饒速日)の三男のタケハニヤスは山代国(京都府)愛宕郡の出雲(現在は出雲路)に領地を持っており、タケハニヤスは出雲の王と呼ばれていた。タケハニヤスは反乱を起こしたことから、出雲は大和の敵という意味になっていた。邪馬台国全史2~宇摩志麻遅命


物部神社の社伝では御祭神「宇摩志麻遅命(ウマシマジ)」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られたとれています。


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。



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4 Comments

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tootake
Nov 29, 2023
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崇神天皇60年7月には、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。『日本書紀』

その後律令制の下では出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。

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tootake
Nov 28, 2023
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八百山

石見国一の宮:島根県大田市、山陰の名山三瓶山入口にあたる川合町に鎮座。社伝によれば514年(継体天皇8)勅命により祈祷を専門とする神殿が創建されたという。その後石見銀山争奪戦の兵火などで三度消失。現在の本殿は1856年改修された春日造りの重厚な建築で、県下では出雲大社につぐ規模となっている。

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