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邪馬台国前史Ⅳ~木瓜紋

更新日:4月9日

第120回

   

ヤマトへ  BC219年 彦幸19歳、渚姫21歳


ある日、異形の男が彦幸たちの館を訪れる。背が高く髪の色は茶色がかっており、鼻が高く目の色は青かった。大声で何か叫んでいる。

「あれは魏の言葉や。お前、話せるやろ。何の用か聞いといで」

渚姫は、側にいたウズメに言った。その時、ウズメはほとんど裸だった。新しい着物を作らせたので、それをウズメに着せようとしていたのだ。

ウズメの目も青く髪も赤みがかっている。最近、大陸からやってきて渚姫の女官になったばかりだ。ウズメは臆することなく、裸のまま男の前に立った。

男は猿田彦がだと名乗った。大歳に言われて渚姫を迎えに来たのだと言った。

猿田彦の後ろには、大彦がいた。「驚いたか。この男は、魏よりも遠くの国から来たんや。こう見えて色んな事を知っとるけえ、教えてもらえ。」

大彦は、渚姫の父の大名草彦に会いに来たのだ。大歳は、渚姫が気に入って后にしたいとのことだった。大名草彦は、すぐに承諾した。渚姫も異存はなかった。

しばらくして渚姫と、彦幸は中型の帆船(ジャンク)で大和に向けて出港した。大彦も大型のジャンクに兵を十人ほど載せて共に名草の港を出た。大歳は、この国でも帆の付いた舟を作りたいと思っていた。

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福井県坂井郡春江町出土の銅鐸には、細長い船体の前後が高くそり上がったゴンドラ形の船でが描かれています。十人を越す漕ぎ手の姿が船の上に見えます。

福井県春江町は、日本海の三国の近辺です。日本海と九頭竜川を結ぶ中間点が三国で、上流の鯖江の舟津神社には大彦が来たという伝承があります。釘を使用した”縫合船”が弥生後期には出現していており、この地域が縫合船丸の発祥の地だと思われます。

このゴンドラ船は、丸木舟とは、違い釘を用いて板を継ぎ足つことによって造られたものだ思われています。

イタテ神(五十猛)を祀る紀ノ國(木の国)の紀臣一族は、五世紀を通じて対半島の水軍とし て活躍しましたが、おおむねこの時期の大型船は、複材構造船だったと考えられています。邪馬台国異聞3~縫合船


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古代日本は集落間を移動する道路が整備されていませんでした。もともと日本は険しい山岳と河川で分断されており、陸路での長距離移動は難しいのです。船で移動する方が、陸を移動するよりも安全です。


賀茂建角身命は神武天皇を先導してヤマトの葛城山に宿り、そこから次第に鴨川の上流葛城に移ったとされています。その経路を風土記で辿れば葛城山から、さらに北上して、山代川(木津川)を臨む地、山代国の岡田の賀茂神社(京都府相楽郡加茂町)に至り、さらに山代川との合流点から、葛野川(桂川)と賀茂河の合流点に至り、これを「石川の瀬見の小川」と名づけ、この川を遡って久我国の北の山基に定座したと伝える。久我国の北の山基とは、今の上賀茂神社の西、西賀茂の大宮の森、下賀茂神社の旧社地とされる土地である。


葛城山に宿り、そこからさらに北上して次第に鴨川の上流葛城に移ったとされていますが、これは記紀の筆者の思い違いです。記紀の筆者が生きていた500年前(邪馬台国の時代)は、葛城から木津川に至るには道などありません。賀茂建角身命が先導したというのなら、海路で三島に向かった筈です。鴨族は水運を司る一族です。


紀ノ川を遡上すると容易く大和南部に達することや、紀ノ川が古代の交通路であったことに注目して、神武行軍の紀ノ川遡上説を主張している研究者がいますが、それならなぜ奈良盆地にとどまらずに通り抜けて山代川(木津川)を臨む地、山代国の岡田の賀茂神社(京都府相楽郡加茂町)に行ったのでしょうか。


本当のことをいうと葛城から奈良盆地湖を利用すれば、木津川まで到達できます。岡田の加茂神社に行く途中に孝元天皇(スサノオ)の黒田宮・鍵・唐古遺跡があります。今回が、舟で移動する場面が欲しかったので海路としました。

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彦幸は舵取りで手置帆負は名前の通り帆を操っていた。渚姫は自ら鏡をもって方角を探っていたが、すぐに飽きて日の当たらない船室に籠っていた。

ウズメは船の上でも裸だった。首から垂らした細い紐(緒)がウズメの衣装のすべてらしい。このときウズメは15歳、彦幸の父親の大名草トベが交易で魏に渡ったとき帰りの船に勝手に乗り込んできたという。この時代特に南紀では、地位のない女性は夏は、腰巻一つで過ごすのが普通だ。ウズメには恥じらいというものがないらしく腰巻もしていない。裸でいることが好きなのだろう。しかしウズメの格好を気にするものはいなかった。猿田彦はそんなウズメを眺めて悦に入っていた。名草姫のお付きには、ほかに太玉とイシコリドメ、コヤネが付いていた。


大彦の船の帆には五瓜に唐花 の木瓜紋(もっこうもん)が描かれている。木瓜紋は後の織田家の家紋と同じである。この木瓜紋は、菊理姫命(ククリヒメ)を表しており、菊理姫は水上交通の安全を願う神で、素戔嗚の后の三島の真下姫のことだ。

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素戔嗚の紋は木瓜(五瓜に唐花)で後の織田信長の紋と同じです。京都の八坂神社でも

見ることができます。木瓜(キュウリの紋)の示すものは白山のイザナミと思われます。


白山は泰澄により開山されました。泰澄(たいちょう)は、天武天皇11年6月11日(682年7月20日)の生まれで、奈良時代の修験道の僧です。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられています。越(こし)の大徳と称されました。白山の祭神は、菊理姫ですが、当初はイザナミが中心的な祭神でした。白山は活火山で、火炎の世界の女王イザナミと重ねていると思われます。


泰澄は、越前の足羽郡の神職の家に生まれました。イザナミの火と、水と言う具合に対照的な神の形が存在し、泰澄は、この災いの火の神を水で鎮めるべく白山を開山したと思われます。この僧で知られる京都愛宕も消防の聖地として、火の神イザナミを鎮めるために今も消防士は訪れます。

白山はキュウリの花の紋です。足羽を拠点にした朝倉氏もキュウリの紋です。花は、母親を意味し、キュウリは子供が生まれる事と重なります。

私は、木瓜はキュウリではなく、菊理姫の「菊」を表しているのだと思います。


祇園信仰において、スサノオ(牛頭天王)を祭神とする八坂神社の神紋が木瓜であり、キュウリの切り口と似ていることから、祭礼の期間はキュウリを食べないという地方(博多の博多祇園山笠など)もあります。八坂神社がある福井市網戸瀬町ではキュウリ栽培を行なわなず、毎年7月14日にはキュウリ祭りが行なわれ、この日は食べることも禁じられています。

京都でも祇園祭の時、氏子たちはキュウリを食べません。


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天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神(=猿田毘古)が行く手を阻んだ。アメノウズメは天照大御神と高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは『日本書紀』では次のように記述されている。 「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」 つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら(猿田毘古に)向かって言ったとある。その後、名を問い質すと、その神は国津神猿田毘古神と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。




白山比咩神社の神紋  正式な名称は「三子持亀甲瓜花(みつこもち・きっこう・うりのはな)」。六角の亀甲の形を七五三に配した三つ子持ち、すなわち三条の構えをめぐらし、その中に瓜の花を描いたものです


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tootake
2023年10月14日
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tootake
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