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  • tootake

久我神社と紀伊

第207話


久我神社は京都市伏見区にあります。久我とはあのクガミミに関係がある地です。

陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、古代の丹後にいたと伝えられていますがクガは京都(山城=山代=やまだい=ヤマタイ=邪馬台国?)の地名です。丹後国風土記残缺によると、崇神天皇が弟の日子坐王を派遣してこれを討ったとされています。私は、クガミミは久我神社付近を支配していた有力者だったと思っています。ミミ(耳)とは地方長官といった意味です。そして、クガミミの討伐は、例のタケハニヤスの乱に連動して起こったクーデターだったのです。


久我神社の祭神は賀茂建角身命で境外摂社には賀茂別雷神社も祭られています。

賀茂之本地では賀茂別雷神は阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)と同一視されています。前号では味鋤高彦根命(アジスキタカヒコネ)は賀茂建角身命であると書きました。第174回では賀茂建角身命と賀茂別雷命の違いがよく分かりませんとも書きました。このブログでは賀茂建角身命=賀茂別雷命=アジスキタカヒコネということにしておきます。


第120回(邪馬台国前史Ⅳ~木瓜紋 )では、小説仕立てにして書いてあるのですが、後の卑弥呼こと名草姫が、紀ノ國(紀伊)の名草から、山城(京都府)に移動する様子を描いています。卑弥呼は名草トベ~和歌山市

葛城から奈良盆地湖を利用すれば、木津川まで到達できます。岡田の加茂神社に行く途中に孝元天皇(スサノオ)の黒田宮・鍵・唐古遺跡があります。


山城国風土記によると、賀茂建角身命は神武天皇の東征に功を成したのち、大和から「山代の国の岡田の賀茂(岡田鴨神社)、葛野川(桂川)と賀茂河(鴨川)とが会う所「久我の国の北の山基」~久何神社(久我神社)の順に遷座したといい、それぞれの地には現在も賀茂氏の氏神が祀られています。

久我の地名については、乙訓郡ではなく南山城の紀伊郡を本来の呼称と見る説があり、紀ノ國(紀伊)の名草から、卑弥呼一行が来たことを裏付けています。


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<追記>紀伊の表記について

紀伊国と表記するようになったのは和銅6年(713年)です。「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」との勅令が出されたためです。しかし近畿の方言では「木」(きい)、「目」(めえ)、「手」(てえ)のように、1拍語を2拍で発音する傾向があるが、木国も同様、もともと当地(または都である奈良)の発音で「きいのくに」だったため当て字で「紀伊国」としたとする説もがあります。


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。  

※これまでの記事はこちらです。



久我神社


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2 kommentarer

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
23 jan.
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このプログでは、神八井耳はタケハニヤスです。タケハニヤスは大彦に討たれる前は、鴨族のトップとして河内湖(淀川)の水運全般を司っていました。邪馬台国前史8~手研耳と神八井 (hidemaru3375.com)


葛城系の孝元天皇が磯城系の穂積臣の内色許売命を娶って生んだのが開化天皇、河内の青玉の女波邇夜須毘売を娶って生んだのが健波邇夜須毘古(武埴安彦)である。皇位奪回の企てであるが、失敗に終わっている。

三室戸にある新羅神社

京阪電車三室戸寺駅の近くに日本三名橋の一つである宇治橋がある。橋の遥か後方に見える明星山の中腹に三室戸寺がある。三室戸寺の参道は明星山の山裾にあるので、樹木が繁る登り道である。参道の入り口に小さな川がある。この川は明星山に発し寺の境内を流れ宇治川に注いでいる。小さな橋を渡るとすぐ左側に大きな石の明神鳥居がある。鳥居には石の扁額が掲げてあり「新羅大明神」と書かれている。文字も額の周囲も朱色である。石の鳥居の奥にもう一つ朱色の木造鳥居がある。その背後に石段が五段ほどあり、石垣で囲まれた台地に社殿がある。社殿は高さ二~三m、間口・奥行とも一・五mほどの切妻、平入りの建物。照り屋根、桁行一間、梁間二間社流造。柱と貫と屋根は鳥居と同じ朱塗りである。側面は白色の板壁になっている。社殿は下が高床式の箱型の台座になっており、神座は上壇にある。 森羅大明神の扁額鎮座地は宇治市菟道滋賀谷。祭神は素盞鳴命と五十猛命である。三室村の辺りは古来、神在ますところとして信仰されてきた。御室の里と言われ、三室戸寺も御室、御室堂といわれた。三室戸の戸の文字は堂の転化したものか、または場所・入り口を指し、神座を意味するといわれる。その神座は「みむろ山」と呼ばれた明星山を指している(『宇治市史』)。井上香都羅『みむろ物語』によれば、「みむろ」の意味は三室山にある岩室からきており、弥生時代に一族の長など首長級の者が死んだ場合、山の岩室に葬った。この死者の霊の宿る岩室を「み室」と呼び、子孫たちは祖霊の宿る山の正面を祭祀の場に定め、年に一度か二度祖霊の祭りを行った、という。現在この山の山頂付近には盤境らしい露岩の点在が見られ、この山を神の降臨する所として古代の住民の信仰の跡がうかがえる。またそこには康和年間(1099―1104)に三室戸寺を中興したと伝えられる三井寺の僧隆明の墓があるとされ、聖域となっている。


Gilla

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